関節炎   字分けは自分け   知念先生 11:11


 

字分けは自分け

 

数ヶ月前に命波の勉強会で「字分けは自分け」と言う話をしたことがある。その後で、

どういうことかもっと詳しく説明して欲しいと言われた。すぐには出来なかったのだが、

今ここで少ししてみようと思う。

 

もうひとつのエッセイで関節炎の字分けをしたが、実際に自分の身に起きたことを字分

けによって直視することが自分を分けるということで、これがなかなか難しい。「悪いのは

私でなくて、関節なの」と考えがちだから。

 

十数年前に亡くなったが、橋本敬三さんという医師がいた。「操体法」という体の歪み

を矯正する画期的な方法を考案した人である。この人の直弟子に聞いた話。

 

名医だという評判を聞いて、橋本先生の医院には毎日大勢の患者が押しかける。腕が痛

いと訴えている患者に、

 

「じゃあ腕を置いて行ってください。治しておくから」

 

頭が痛いという患者にも、

 

「頭を置いて帰っていいよ、忙しいだろうから。治ったら取りに来ればいい」と言った

そうである。

 

腕も頭も病気ではない。病気なのはその持ち主の方。頭や腕には何の罪もないのに、ま

るでそれらが持ち主を苦しめているように言っているのが考え違いなのだそう。自分のせ

いでなくて、腕のせいだと言うなら外して置いて行けというわけである。勿論取り外せな

いので、しょうがない一蓮托生で罪を負わなければならないのが現実。

 

 自分の状態を直視して少しも嘘偽りなく観ることを実行しておられた亡き恩師の小田野

早秧先生は、本人によれば、「細胞一つ一つの所在が分かる」ほどの精妙な内観力を持って

おられた。それほどまでではないにしても、自分の体を端から丹念に感じ取ってみようと

今朝思い立った。

 

 まあ、あきれるほどあちこちが不具合。右足の第四指をはじめ全身数十箇所で、観察し

ている意識が留まった。丹念に丁寧に観て行くと腎臓も腰もいろいろ語ってくれる。胃の

内壁などほんと気の毒。いちいち挙げて読者を煩わせるのは控えるが、私を住まわせてく

れている大家さんである体に申し訳ない限り。ひたすら謝るしかない。

 

 おおいに反省モードの今日です。

 

2007/07/09