八月のご挨拶 マントラとヤントラ またまた目からウロコ 久司典夫さんからのメッセージ



またまた目からウロコ

この頃落ちた目のウロコ。

 今をさること7、8年。あれはオリオンと名乗る存在(?)からシリウス、プレアデスとの関係についての電話を受けた後のことだった。高次元の知的生命体からの通信かもしれないと思ってワクワクドキドキ。シリウスと名乗る存在からのメッセージを受けている人のことも情報として知ったばかりの頃で、もうすっかり他の天体にも知性を持った存在があると思っていたのだ。人間が地球上を歩き回っているように他の惑星上でも姿は多少異なっているにしても、考えたり、コミュニケーションしたりする生き物がいるというイメージを持っていた。ハリウッドの映画制作者が持っているようなイメージだ。


「宇宙に星があるかないか実は私たちには分からない。分かりようがない」と小田野先生が言われたことがある。 「は?でもあるじゃないですか。見えますもの」と私は断言(よく断言する人だった)。 「見ていると思っているだけでしょ。見えているから在るという証拠にはならないですよ」 「は?」



 さて、「見たものが見えると感覚する」というメカニズムについて現代科学が発見したことに少し説明してみようと思います。あくまでも素人ですから説明の不十分な点はご了承願います。

「見たもの」という点を取れば、眼という器官を通って視覚入力がされたものについて認知がなされるということです。ほとんどの視覚入力に対する処理は光が眼に入ると同時に生じます。そして「見たものを認知」します。

 つぎに「見えると感覚する」つまり「視感覚」という点について言えば、視覚入力されたものが「脳に記録された」状態だと言われています。私たちはこの二つを同時に行って、「見たものが見えた」と思って暮らしています。

 眼の中に光が入ってくると瞳と水晶体を通過します。それが眼球後方の網膜に分散している錐体や桿体と呼ばれる光感覚物質を刺激します。次にその刺激は頭の後ろのほうにある大脳一次視覚野に送られます。ここで送られてきた画像の様々な特徴が抽出され、その情報がさらに高次の視覚野へ送り出されます。高次視覚野では網膜に映った画像をもとに必要な情報を抽出し、外の世界についての「解釈」を再構成するそうです。

 この「解釈」という点が問題なのです。あくまでも解釈なのですから、個人個人の体験によって培われた情報の蓄積と照らし合わせがされるということなのです。

 アメリカの症例で非常に示唆的なものがあります。オリヴァー・サックス(ロンドン生まれの神経科医で現在アメリカ在住)の『火星の人類学者』という本で紹介されています。五歳の時に脳膜炎に罹り、重い白内障になって、ほとんどの視覚を失ったヴァージルという男性の症例です。五十歳の時に結婚した相手に強く勧められて手術を受けたのです。その結果視覚的な障害が大幅に改善され、いわゆる「ものが見える」ようになったのです。ところが「見えるはずのものが見えなかった」のです。つまり知覚されなかったのです。眼の機能は改善したのですが、記憶庫に見たものの形の蓄積がなかったために参照すべき形がなくて、「見たものの形が何か分からない」という事態が生じたのです。手で触れて形を探れるものを眼で見ることで参照し合い、それによって少しは形状が認識できるようになっていったのですが、写真は全くだめでした。なにかモヤモヤと色らしきものがごちゃ混ぜになっているだけで、そこに写っている事物は認識できませんでした。写真に写っている事物は手で形を探ることが出来ないからです。

 これは何を意味しているのかと言うと、私たちが通常「見たものが見えたと」思っている知覚と、見たものが「脳に記録された」視感覚とは、脳の視覚野の行う「解釈」次第で変わりうるもの。つまり絶対的な普遍現象ではないということなのです。

 少し分かり難い説明だったかもしれませんが、遠くに見える天体は必ずしも私たち人類がその体に付随している視覚器官を使って見て、脳が見たと感覚している形態で存在しているかどうかは分からないという小田野先生の説を覆すことは出来ないということです。


参考文献
『火星の人類学者』オリヴァー・サックス。ハヤカワ文庫。1997年
『大脳皮質と心』ジョン・スターリング。新曜社。2005年。
「認知記憶の大脳メカニズム」宮下保司。2003年の講演録から。