エッセイ

Vol.11

無条件の喜び

無条件の喜び

 心から愛し、愛されたい…というのは万人の願いだと思います。あなたは今、好きな人を心から愛することができていますか?

 自分だけで世界を変えることはむずかしいけれど、自分だけの世界を変えることはすぐにできます。それには調子のいいときより、調子の悪いときが最適。つまり、自分の世界を変えたい!というモチベーションが膨らんだときがチャンス。

 自分の世界は、ちゃんと自分の心が見せてくれています。たとえば好きな人との間に起きていること、正確には起きたことに対する自分の解釈と感情は、すべて自分の心の投影と言えます。

 だから、起きたことは変えられなくても、自分の解釈の根っこにある「我」をほどくことで、流れが変わって問題が問題ではなくなることはよくあります。

 私たちは好きな人をいつも深い愛で包みたいと願っているにもかかわらず、ついつい「我」に取り込まれて、相手をコントロールしたいと思ったり、思うようにならないと相手を悪者にしてしまいがちです。

「我」の語源は、のこぎり。全体から切り離すものであり、傷つけるもの。私たちは我を張ることで自分と相手を切り離し、我を通そうとがんばることでますます心が離れてしまう…そんなことを年中繰り返しているんですね。

 もともと生まれたときには「我」という概念がなかったので、ひとつの命を感じて自然界とも他者ともつながって生きていました。それが、大人になるにつれて「私」を意識するようになり、その私を守るための概念を次々に取り込んで、ものすごく強固な我意識を育ててしまったんです。

「我」を払うことを、神道では『清める』と言いますが、私たちが心安らかに生きていくためには、心を清め、この「我」を超えたところの本来の自分≠取り戻すことが必要不可欠だと思います。

「我」の対極にあるのは「全体意識」。そこに流れているのが「無条件の愛」です。我意識で人を愛そうとしてもうまくいかないのは当然のこと。我は必ず条件を出すから。そして、条件が叶わないと不満を募らせて相手を責め始めます。

 そうやって好きな人と喧嘩になったことはありませんか? そのあと、「これじゃいやだ。もっとこの人を愛したい」と思って、愛そうとしてがんばったけどダメだった…ということも起きたかもしれません。

 残念ながら、無条件の愛は、愛そうとがんばって流れるものではないんですね。なぜなら、そこでは相手に対する「隔たり」や「愛せないところ」に意識が向いているから。分離意識を持ったまま、無条件の愛を流すことはできないんです。

 そんなときは、「尊敬できる部分」や「感謝できる部分」に意識を合わせようと思ってみてください。そこから愛が流れ始めると、それはきっと無条件の愛だから。そうなったとき、あなた自身も愛に包まれて無条件の喜び≠実感するでしょう。



ゆりりんのブログ『ありのまま、なるがまま』

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Last Updated: 2022/11/07