エッセイ

Vol.03

戦いのリングから降りて

戦いのリングから降りて

 先日、久しぶりに『克己』という言葉に触れて、何とも言えない気持ちになりました。それはなつかしさをともない、痛みにもくすぐったさにも似ていて、若かりし頃の自分を思い出しました。

『克己』を辞書で引くと、「欲望や邪念に勝つこと」と書いてあります。自我が確立した中学から高校時代にかけて、私はこの言葉を座右の銘にして壁に貼りつけ、事あるごとに「自分に負けるな!」と言い聞かせていたんですね。

 当時は、「勉強に集中できない自分は弱い。友達と遊びたい気持ちは制御しなければいけない」と思っていました。親にほめられるいい子≠目指していた私は、「欲望は悪」と決めつけて自分と戦っていたわけです。

 今思えば、『克己』には儒教的な匂いがありますが、それをよしとする時代背景もあったのでしょう。私は20代も30代も自分と戦い続け、負け続け、ついに39歳でぶっ倒れました。そこから意識の変容が始まったのです。

 その意味で人生に無駄な経験はありませんが、ふと振り返ると、「あーあ、半生を勘違い≠オて生きたなぁ」と笑ってしまいます。勘違いの1つは、勝てると思って絶対に勝てない戦いに挑んだこと。もう1つは、自分の欲望を悪と決めつけたこと。

 自分とはいっさい戦わなくてよかったのに、戦い続けて悲惨な結果を招きました。なぜなら「欲望や邪念だらけの自分に勝てるはず!」と勘違いしたからです。この自分は、戦って欲望をねじ伏せる相手ではなく、すべてを許して愛を注ぐ相手だということをまだ知りませんでした。

 ままならない感情と向き合うときは、それがわいている理由が必ずあるから、理屈で制御しようとしないで、心の声に耳を澄ませればいい。どんなときも答えは自分の内側にしかありません。それを引き出すことができるのが、愛の力なのです。

「絶対に勝てない戦い」と言い切れるのは、私たちは、もともと自分の正体が何かわかりたくて生まれてきて、その正体である愛に還ろうとする存在だからです。脅しや利己心では絶対に守ることも、変えることもできない、もっとずっと大きな存在なのです。

 もう1つの勘違いは、「欲望は悪」と決めつけたこと。欲望も邪念も自分の一部です。もし、愛は美しいものの集合体のようなイメージを持っているとしたら、違いますよ。愛はすべてを含んでいるから美しいんです。

 私たちの暮らす3次元は相対的な世界です。愛でないものがあることで、愛が見える仕組みになっているんですね。闇があるから光を認識できるのと同じです。人間が抱える欲望や邪念は、悪ではなく、愛とは何かを教えてくれる貴重なツールなのです。

 もし、今自分と戦っている人がいたら、戦いのリングから降りて、宇宙に降参して、自分の愛を信じて生きてみませんか。ある瞬間、闇の中から気づき≠ェ生まれて、自身が愛に包まれたとき、すべてが宇宙からの贈りもの≠セときっとわかるでしょう。



ゆりりんのブログ『ありのまま、なるがまま』

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Last Updated: 2023/03/07