私のエッセイを読んでくださる方は、私のように(?)真面目な方が圧倒的に多いようにお見受けします。そこで、あえて『非真面目のススメ』を書いてみようと思います。
最初に区別しておかなければいけないことは、"非"真面目は"不"真面目とは違うということ。「そんな不真面目な態度でどうする!」と学生時代は先生に叱られたものですが、不真面目は「真剣じゃない」「手抜き」「ふざけた態度」ですよね。
物事を不真面目にしていいことは何もありません。もし、それが生き様にまで及べば、人から信頼を得ることも、仕事で成果をあげることも、夢を叶えることもできなくなり、そんな人生に失望して自分を嫌いになってしまうでしょう。
というわけで、不真面目な態度は論外です。けれど、それとは裏腹に、真面目一辺倒でがんばっているのに人生がままならない、自分をなかなか好きになれない……と、悩みを抱える人が大勢いるのはどうしてでしょうか?
実は、私もかつてはそのひとりだったんですよ。真面目な性分ゆえに「一生懸命がんばらなくてはいけない!」と思い、「〜をしてはダメ!」「〜でなければならない」「人に後ろ指を差されないように……」と目に見えない"常識の縄"で心を縛り付けて、完璧にこなせない自分を責めていました。
これでは楽しく生きられるはずがありません。私はしだいに悩み症になり、不安症になり、そうまでして何がほしいのかと自問自答したとき、世間の常識を守って世間から評価してもらわなければならない……と思い込んでいたことに気づいたのです。
それは私にとって少しも胸躍ることではありませんでした。そうではなく、「もっと自分らしく、もっとワクワクして、もっと楽しく生きたい!」「たとえ世間の多くの人が尻込みするようなことでも、自分がやりたければ果敢にチャレンジしたい!」と思いました。
常識とは、その時代の過半数の人が抱く"無難な考え"と言ってもいいでしょう。その常識と自分の考えが一致しなくても、なんでもかんでも常識に合わせる必要はないのだ。むしろ常識にとらわれず、自分の信念を持ち、非真面目に動いてこそ人生を切り開くことができる、というのが私の考えです。
25歳でアナウンサーをやめて渡米したときから私の人生開拓ははじまりました。以来、大事な事柄は「まわりが賛成するか、しないか」でも「自分にできるか、できないか」でもなく、「自分がやってみたいか、やってみたくないか」で決めてきました。
これまで紆余曲折、本当にいろんなことがあったけれど、(今まさにその体験を本に書いているところです)後悔はまったくしていません。自分が信じた道を進み、結果としてものすごく真面目に自分の課題と取り組んできたからです。
芸術を筆頭に物事をクリエートする作業は、無難や常識にとわれていたらできません。非真面目な発想が不可欠です。人生もまた非真面目のほうがおもしろい。あなたにはぜひ、人生のクリエーターであり続けてほしいと思います。そこに、人間の根源的な喜びがあるような気がします。