ソンするかも…ムダに終わるかも…と感じたときに、それでも“相手の得になるように「自分を与える」”ことはとてもむずかしいですね。
しかたなく譲ったり、もったいぶって恩着せがましくするのは、「心から与える」行為にはならないし、またそんなふうにされたら、相手は気分を悪くするか気が引けるでしょう。
そこに登場するのが「お金で割り切る」という解決策。「これだけ払うんだから、それに見合うものを与える。もしくは与えられる」ということでお互いに納得します。確かに社会生活はそれで成り立っていますが、このままいくと『親切』まで「サービス料」として買うしかなくなりそう…。
今や『感動』だって、「与えるもの」ではなく「お金を出して手に入れるもの」と考えている人が多いかもしれません。実際に、あなたが旅行・映画・観劇・美食・本などに出費する場合はどうでしょうか?
それは少しも悪いことではないけれど、合理性だけをよしとすると、思いがけない喜びや、計算外のありがたいことに触れる機会をなくしてしまいます。ようは、人生がつまらなくなるんですね。
問題は、「当たり前」という感覚を抱くことにあります。「お金さえ払えば、与えられて当然」と思っていると、『感謝』の気持ちがわきにくくなります。感謝することから遠ざかれば、どんなに便利でも、もの足りなく感じます。
なぜかというと、私たちにある感謝、つまり「愛」は、もともと数字で割り切れるものではなくて無尽蔵。それを、お金に代表される「引き換え条件」にこだわって出し惜しみすれば、自分自身に「愛」が流れないから充足感が得られないんです。
与えられれば与えられるほど「欲望」がわいて、与えれば与えるほど「愛」が流れるのが人間。だからこそ、「気持ちよく与える」ことを意識的にやっていきましょう。
たとえ相手にお金を払う側でも、感謝することはいくらでもできるし、逆にお金をもらわなくても、自分が役に立てたことに感謝することはできるでしょう?
そこに生じる「お金では買えない喜び」の受け渡しが、「ありがたい、なんて豊かな人生なんだ」という感動につながっていくんです。
まずは、どんな小さなことでもいいから、相手の得になることや、相手を認めてあげることを、「してさしあげる」という気持ちで触れ合ってみましょう。すると、相手の喜ぶ姿や声に接して、与えられたときとはまったく別の喜びを味わえますよ。
そのとき、あなたを縛りつけてきた自己防衛の壁がくずれて、自分が解放されるのがわかると思います。それが、「与えることは与えられることだった」と感じる瞬間なのです。
何かをしてあげられるということは、だれかの役に立つということ。自分がだれかを幸せにしてあげられたと実感できることです。あなた自身の存在価値を、もう一度そんな中から発見しませんか?