自分の本にサインをするとき、「ついでに何かひとこと書いてください」と頼まれることがあります。大方そのときひらめいたものを書きますが、最近は気に入ったフレーズがあって、もっぱらこれを書いています。
『ともに海に還るひとしずく』
ややこしい人間関係に身を置く人を見るにつけ、なんだかんだといがみ合っても恨んでも、いずれはみんな同じところに還っていく仲間なんだよなあと思います。生身で触れ合えることをもっと粋にわりきって、大らかに泣いたり笑ったりして楽しめばいいのになあと感じます。
生きる過程には苦しみや悲しみが横たわるから、逆に喜びや感動にふるえることができるんですね。そうしたバランスの中で私たちの感性は育っていきます。もし悲哀がなかったら、胸にしみるような音楽や文学などは生まれてこなかったでしょう。
確かに苦悩に直面するのはとてもつらいもの。私だって大泣きします。でも、それは生きているからこそ味わえる生々しい感情で、同様に肌と肌が触れる感覚も、いのちの温もりを伝え合う貴重な体験です。
それらはみな死とともに去ってしまうから。そして終わりは、誕生という新たな営みの始まりになるのです。これが、いいも悪いもなければ悲しいもうれしいもない、いのちが転生する有様です。
このように幾度も転生を繰り返してはいても、同じタイミングで同じ場所に生きている人たちは、考えてみればものすごい確立で誕生したいのちということになります。
ましてや、直接出会って言葉を交わしたり食事をしたり、あるいはこうして書いたものを読んでくれる人がいると想像するだけで、なんだか妙にときめいてしまうほど、深い縁を感じないではいられません。
人生とは、しょせん限られたわずかなときです。しかも今というときは、この瞬間だけのものです。明日というときもなければ、明日のいのちというものもありません。私たちは、今にだけ生き続けるいのちなんですね。
そんなときを共有する仲間たちと、目先のことにとらわれないで物心ともに分かち合って仲良く過ごしていきたい。『ともに海に還るひとしずく』という言葉には、そうした願いを込めているのです。
ところで、論語の中に「水は方円の器に従う」という言葉があります。水は四角い器にも丸い器にも沿いながら、本質はなんら変わることがないという意味です。
時代に翻弄され景気や人間関係に振り回されて、自分自身の本質を見失うのは情けないこと。事態が変わるたびにすぐ損得を計算して、右往左往するのは人間だけです。
常に自らを縛らないで水のように柔軟でありたいと、私もしみじみ思います。そうすれば、人生という川がいくらくねくねしても、さらさらととどこおらないで生きていくことができますから。みんないい顔で海までたどり着きましょうよ。