![]() 私は、山歩きが好きです。「お邪魔しまーす」みたいなノリで入っていくのですが、登るにつれてどんどん別世界が展開して、大自然のふところで遊ばせてもらっているような気分になります。 何時間もかけて頂上にたどり着くと、どの山の上空にも神聖な空気が流れていて、まるで世俗の垢にまみれたこの身を浄化してくれるようです。現に、肉体的にはどんなに疲れても、私の体には生きるパワーがみなぎってきます。 ところで、誰もが山に惹かれるのはなぜかと考えてみました。山に登らないまでも、眺めるのが好きなのはなぜか。広大な山々を、神の鎮座する場所として、遠い昔から人々があがめてきたのはなぜなのか。 その答えは、「自然そのものだから」というのが一般的でしょう。ほっとするとか、畏敬の念を感じるという感想もあるかもしれません。では、なぜ山は自然そのものなのか。その理由は、『地球と密着してつながっているから』ではないかと思ったんです。 地球は、大自然そのもの。ガイヤの意識を持った神の化身といえます。神といったのは、地球は『ただ与える存在』に徹しているから。無償の愛で、ありとあらゆる生きものを育んでいるからです。 山はその地球とつながった、いわば地球の一部です。だから、根がはえている山の植物も地球とつながった存在で、同じように愛そのものなんです。そこには「我」がなくて、それに付随した「思考」も「本能」もありません。 ということは、『我のない存在』に、私たちは心を奪われるのではないかと思ったんですね。我がなくて『愛そのものの存在』にほっとするのかもしれないし、人間が忘れている荘厳で崇高な『いのちのゆらぎ』を、そこに感じ取るのかもしれない…。 地球と一体で生きている植物には「我」がありませんが、さて、自由に動き回れる動物はというと? さらに人間は? そう考えていくと、人間を含めた動物は、自由を得たのはいいけれど、地球と同様の在り方からは隔たってしまったような気がします。 動物には「本能」があります。野生の世界では、その本能を満たすために戦い殺し奪い合います。でも、動物には「過ぎる」ということがありません。飲み過ぎたり、食べ過ぎたり、考え過ぎたり、性におぼれたり…こんなことをしているのは人間だけです。 その原因は「我欲」。欲に翻弄されて生きていることが問題なんですね。私たちには本能に加えて思考がありますが、精巧な脳をエゴを満たすために使うことに忙しくて、「ただ与える存在」から遠ざかってしまいました。 人間は勝手に、〈動物〉さらに〈植物〉の順で下等と決めつけていますが、とんでもない! 実際は逆で、多様な価値観に翻弄されて本来の自分を見失っているのがいまの人間だと思います。本来の自分は、植物と同じように「地球とつながった無我の存在」で、「愛そのもの」だということを、そろそろ思い出す必要があるようです。 私たちも植物のように、『気』という根を大地にはって地球と密につながり、しなやかにたおやかに、「ただ与える人」として生きませんか? |
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