Vol.3

「"自分を使い切る"」

『夕刊フジ』で「ねっとカウンセリング」のことが取り上げられ、様々な反響がありました。その中で「なぜボランティアでねっとカウンセリングをやっているのですか?」という質問を受けましたので、今回はこれをテーマに選びました。

 カウンセラーになった私は、数年前までは『人のために役に立ちたい』と思って仕事をしていました。そのときはとても疲れたんですね。理由は、私の中に『こんなにがんばってるんだから、そのかいがなかったらいやだ』とか『人の役に立っていることを認めてほしい』という気持ちがあったからです。

 クライアントの反応次第で、私の要求は空振りに終わることもあれば、認めてもらおうとついつい力が入って、心身ともにくたびれて果ててしまうことも年中でした。そこで、『自分ではいいことをしているつもりなのに、なぜあとに"快"が残らないのか?』と考えました。で、気づいたんですね。自分の行為が"愛"からではなかったことに。

 もちろん、プロとして一生懸命やっていました。でも実際には、与えることに徹しているつもりで、心の底では賞賛をほしがっていたんです。極端な話、私はクライアントからも満たされたいと思ってやっていたわけです。

 それからの私は、≪自らを救えない者は人を救えない≫という真理に目覚め、人から認められることに飢えた自分の救済に励みました。

 そんな自分もそのときの状況もありのままを無条件に受け入れて、不安な自分にやさしく寄り添って愛を注ぎました。どんなときも自分を満たし自分自身を生きるならば、私に足りないものは何もないという新たな感性をつちかっていったのです。

 でも、その過程を振り返れば、一時的にはなんとかいけると思えても、すぐに自分を責める癖やいい気になる癖が出てきて右往左往しながらたどった長く孤独な道のりでした。

 その間、欺瞞的な自分にうんざりして自己嫌悪に陥ったこともありました。それでも、私の小さな歩みにエールを送ってくれた仲間たちに見守られて、とうとう私は"ゆるぎない自信"を得ていったのです。

 その自信とは、うまくできることじゃなくて、心にまじり気がないことからきます。うまくできたかどうかは相手が決めること。私にとって大事なことは、自分の気力・能力をどういう気持ちで使い切るかということです。それを知っている自信です。

 ある人から「自分を喜々として使い切った後に、何が残るというのでしょうか? 消耗する分、何かでチャージしていますか?」と聞かれました。

 喜々として自分を使い切ると、新たなエネルギーが"活力とインスピレーション"という形でどんどん入ってきます。逆に、出し惜しみしたり手抜きをすると、結局は自身がすり減っていって苦しくなることも経験しました。奪われるとか消耗するという意識があると、エネルギーの流れを止めてしまうんですね。

 自分を使い切れば、愛が残るというより愛そのものになります。自分への愛とか相手への愛ではなくて、愛はひとつですから一体の世界。これが安らかな"快"です。まさに与えることによってそれは与えられ、私はありがたく満たされています。


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