バックナンバー


   法悦賛(ほうえつさん)    理解と納得


理解と納得

 

 理解について、最近気づいたことがあります。ここでは理解と納得という二つの現象について考えて

みたいと思います。

何かが分かった時、「ピカリと閃いた」と言う人がよくいます。実際私の経験でも、「その前には解か

らなかったことがある瞬間を境に解かった」と感じるのです。

 

 その一瞬に一体何が起こったのか?

 

 ピカリと閃いた、と言う他ありません。「ある瞬間」とは時間の経過など全くない、絶対至高の速度

の一瞬ではないでしょうか。それを境に「解っていない」が「解った」に変わるのです。昔は理解と

う言葉の読み音を「リカヒ」と書いていましたが、これを逆に読むと「ヒカリ」となります。文字通り

光が射すのです。解らないという状態はちょうど、暗闇で手探りをしながら自分が置かれている状況を

把握しようとしているのに似ています、この暗闇に一条の光が射したら何が起きるでしょう?

 

 さて次に、光が射したことによって自分の置かれている状況が広範囲に渡って「見て取れる」と何が

起きるでしょうか。

 

今まで自分は暗闇の中にいて、ほとんど何も解っていなかったのだという「気づき」が起きると思い

ます。換言すれば、「己の無知を自覚できた」ということになります。この気づきが学びのスタートラ

インなのです。昔ソクラテスという賢者が「賢者とは己が愚かであることを認識している者だ」言った

そうです。

 

人間には(動物も同じですが)、生命維持の為に必要な本能が備えられています。この本能の中には

「自己防衛本能」というものもあります。生命体の存続のためだけにこの本能を使っている他の動物と

は異なり、人間は複雑な生き物であるがゆえにその本能も複雑に屈折して発露します。動物の生存に必

要な脳幹や大脳辺縁系の上に大きな脳葉が被さっていて、中でも特に前頭葉がある為に、いろいろと考

えてしまうのです。単に生き抜くため以上にいろいろ考えます。恥ずかしい、悔しい、惨めなどという

心理的な苦しみも感じ取ってしまえます。これは別に良い意味でも悪い意味でもなく、ただそうなので

す。

 この恥ずかしい、悔しい、惨めなどの感情はなるべくなら体験したくないものですから、当然それを

避けようとする「回避行動」をとろうとします。そのひとつが、「自分は愚か者なのだ」ということに

気づかないで済むような様々な行為につながります。そして結果として「己の無知に気がつかない」と

いう混沌と暗闇の状態に自分を置くようになってしまうのです。

 私は光透波理論に基づいたお話をあちこちでさせてもらうのですが、身を乗り出して目を輝かせて聞

く人と、退屈そうにあくびをして、そのうちに目がトロンとしてくる人がいます。全くなじみのない事

柄やよく知らない話題が出ると、長年そうしてきたように安全圏に逃げようとする反応を起こすのだと

解釈しています。つまり、自分はそれが「難しくて解らない」と認めると、恥ずかしい、悔しいある

は惨めな気持ちになるから、「聞きたくない」という回避反応が起きているのだということに気づいて

いる人はあまりいません。そういう人は理解という光がピカリと射す喜びを知らない人生を送ることに
なってしまいます。とても勿体ないことだと思います。

この回避反応は小さな子供にはあまりありません。まだまだ好奇心旺盛で、知らない話を聞くと目を

輝かせて身を乗り出します。それが年齢を重ねるにつれだんだんに回避反応が多く起きるようになり

す。その結果使われることのなかった脳の多くの部分(主として前頭葉)がますます退化し、早期の痴

呆状態を招きかねない状態になってしまいます。『百歳万歳』というテレビ番組を見ていると、それ

で長生きされる方たちの脳は活発に活動していることがよく分かります。自分のしている仕事が楽しく

てしかたがない、というのも共通項のようです。

 人間は全知全能ではありません(当たり前ですが)。当然知らないことだらけです。何かを知らない

からといって少しも恥ずかしいことではありません。至高の叡智という大自然あるいは創造の源の作業

の完璧さ、細やかさは科学が進歩する程に、びっくり仰天の連続といっていいほど見事なものです。DNA

を見てください。原子素粒子を見てください。星雲を見てください。それに比べたら人間の知恵など「ド

ングリの背比べみたいなものだ」、とそう思っていれば大丈夫。私に言わせれば、「人生なんて赤恥の

かき通し」ですが、まあそこまで思わないまでも、「ほとんど何も知らない」と思っていれば正解。恥

ずかしいなんて一時のことです。逃げなくていいのです。真っ向から無知と向き合って、胸躍らせな

ら、「まだ知らないこと」を学んでみてください。脳は学ぶために作られています。学び、発見し、理

解した時に「スパークして」喜びに満たされるのです。子供の頃、胸を膨らませて、「僕それ知ってる

もんね。この間習ったの」と頬を紅潮させて言っていたのを思い出してください。

 

 さて、理解については、スパークのようなものと思ったところで、次に納得とは何かを考えてみまし

ょう。私なりに考えてみたことですが、理解した事柄が自分の人生体験と照らし合わせて、「ああ、

うか。あの時の経験はこのことなのか。今ようやく解った」となった時に起きるように思います。自分

の人生経験と何の関連性もない理論なら納得にはつながらないでしょう。多くの人にとって人生は多事

多難なものです。「あの時これが解っていればあれほどの失敗はしなかっただろう」あるいは「あれ

ど苦しまなかったかもしれない」ということに気づいたら幸運です。

 納得とは、「納め得る」ということなので、納まるのです。これを「(はら)に落ちる」と表現する人も

ます。つまり知識として頭に入っているだけでなく、「血となり肉となって吸収できる」状態になった

という意味だと思います。肉体を例にとって考えてみましょう。食べたものが消化されていない時は胃

の中でゴロゴロしているわけです。消化されない限りは次々に食べることは出来ません。これを表して、

 

いっぱいのコップにもう水は入らない。従って知識はかえって邪魔だ。知識は要らないのだ

 

などと言いますね。これを言い訳にして「知識は要らない、従って勉強は要らない」と短絡的に考え

る人が大勢います。しかし知識がなくて人間社会で自立して生きることがどうして出来るでしょうか。

料理の知識なくして、食事の支度がどうして出来るでしょうか。笑い話のようですが、本当にあった

話をしましょう。知り合いのある男性が離婚し、初めて洗濯をしようとしたのです。汚れた衣類を洗濯

機に入れ、棚にあったほぼ一杯の洗剤の箱の中身を全部入れたのです。それからテレビを見ていたら目

の端に何か白いものが見えたそうです。何と洗剤の泡が洗濯機からあふれ出て部屋に侵入してきたので

す。部屋が泡で一杯になってくるのでドアを開けたら泡は庭に向かってあふれ出て行ったそうです。も

う一人、若い女性が独り暮らしを始めご飯を炊くために米を洗おうとし、洗剤を入れたという話もあり

ます。これらは知識がないと生活が出来ないという例です。

「知識は要らない」という見解は説明不足なのです。これは、「先入観や固定観念が邪魔して新しい

考えを受け入れることができない」という意味なのです。知識が固定観念になってしまうのは、納得し

ていないからです。この場合知識は「消化されずに胃の中でゴロゴロしている食べ物状態」なのです。

しっかり自分の一部になってしまったものはもう胃の中にはないのですから、次々に新しいことが学べ

るのです。

 納得できたら吸収されるという順序がお分かりいただけたら幸いです(幸いなのは私ではなく、あな

たです。念のため)。

 

 では納得と吸収を助ける理解力はどのように培ったらいいのか。

 

 ここで再び我田引水(意味を知らない人は辞書で調べてください)。頭の引き出しの整理を助ける合

理的なものの考え方と筋道を教えてくれる上、現象を根本的に理解する為に必要な公平にして中立な言

語力を身につけさせてくれる「光透波理論」です。過去の自分の体験および観察した他者の体験(疑似

体験)、読んだ本の内容(他者が体験によって得た見解の要約で、エッセンスだけちゃっかり頂ける

まい方法)など入力された膨大な情報の整理力がないと、「知識の海で溺れてしまう」結果になりかね

ません。整理力を培いつつ、得た知識を真に理解することで、納得し、吸収したら、中から自分がした

いこと、出来ること、楽しめることが判別でき、「実践」へとつながるのです。この実践は納得後なの

で、疲れないのです。従って百歳までやっていても飽きないし、脳も退化しないし、何より楽しいので

す。

 

図式化しましょう。

 

知識(情報)の入力    理解    納得    吸収    実践

 

2009/12/14