「スランプ」  「ファントム・セルフ」

「ファントム・セルフ」

 以下は2005年9月4日付けの電話による会話からの抜粋です。
 ノリオさんと甥のアレックスとの会話です。

アレックス:(この前会った時に始めて、途中で切れてしまった話の続きを聞きたいんだけれど...)世界が必要としている変化は何だと思う?
ノリオ:  世界は何の変化も必要としてなんかいないよ。だって今のままで完全だから。
アレックス:それどういう意味?
ノリオ:  唯一必要な変化というのがあることはあるけれど、それは我々の認識(パーセプション)というものなんだ。その他には何も変わらなくていい。
アレックス:パーセプション?それってどういう意味?
ノリオ:  そうだねえ。パーセプションというのはこの場合、「我々が世界をどのようなものだと捉えているかという意味で、別の見方をすれば、世界は我々のパーセプションが創造したと言えるようなものかな。
アレックス:パーセプションがどう変わればいいの?
ノリオ:  答える前にまず君自身のパーセプションがどんなものか聞きたいな。世界の何が変われば良いと思っているの?
アレックス:飢餓、エネルギー問題、貧困などかな。
ノリオ:  そう、確かにそれらは我々の世界に対するパーセプションが創り出したものだな。これはちょっと難しい話なんだけれど。
アレックス:今の世界は僕達がそのように世界を見ているそのままに出来てしまったと言うの?
ノリオ:  実はそうなんだけれど、君が考えているような意味でのパーセプションではなくて、違う意味でのものなんだ。ちょっと難しいけど。僕も50歳になるまでそれが分からなかったんだよ。
アレックス:分かるのに50年もかかったっていうその発見は何なの?
ノリオ:  気づきというか、パーセプションというか、具体的には「ジャッジメント(判断/裁き)をともなわない観察」と言えるかな。対象が何であれ、その本質を在るがままに観るということは普通なかなか出来ないものなんだ。本質を明らかに観るというやりかたは一つしかなくて、それが、ジャッジメントが全く無い観察というものなんだ。
アレックス:それは分かるよ。
ノリオ:  だから、君が貧困や飢餓が悪いものだと思うなら、それは貧困や飢餓を在るがままに観ていないということになるんだ。そうすると変化を起す「力」は出てこないということになるんだ。
アレックス:う〜ん。分かったような分からないような...
ノリオ:  変化を起す原動力は「在るものをそのまま観る」ということによって出てくるものなんだ。我々がジャッジメントという牢獄に閉じ込められている限り、在るものの本質を観ることは決してできない。そしてその結果自らのジャッジメントの奴隷となり、また自分の周囲に起きている全ての出来事の被害者になってしまうんだ。
 そういう意味で、外側の世界での出来事は何も変える必要はなくて、変えるべきなのは自分の内側のパーセプションだけだということになるんだ。
アレックス:一旦パーセプションが変われば必要な変化は起きてくるという意味なの?
ノリオ:  その質問はジャッジメントから出てきたものなので、君に満足のいく返事は出来ないな。答は「イエス」だけれど、君が聞いた意味とは違う意味での「イエス」なんだ。
アレックス:よく分からないな。いろいろな問題は何もしなくても時が経てば自然に解消されていくっていう意味?
ノリオ:  その質問は解消されるべき問題があるという考えの上に成り立っている。つまり現状は不完全だという判断があるという意味になるね。
アレックス:そうか。それがジャッジメントか。じゃあ、ジャッジメントしてはいけないわけだね?
ノリオ:  まあそうだけど、それじゃあ前後があべこべということになるな。
アレックス:じゃあ世界何も問題はないということになるの?
ノリオ:  本質的にというか、もともと善いとか悪いとか、正しいとか間違っているというものはないんだ。善悪正邪という区別は我々のジャッジメントの所産だと言えるかな。だからと言って全てはそのままでOKだという意味ではないんだ。ただし僕はOKだということを「知っている」けれどね。ただ、それは世界で苦しんでいる人たちに対して何もする気がないという意味ではないけれど。
アレックス:今言った「知っている」ってどういう意味?
ノリオ:  君は本質的に善悪正邪というものはないという意味は分かったと思う。観察者の判断の所産だということも分かったと思う。どう?
アレックス:分かったと思う。それじゃあ貧困についてだけれど、誰も何もしなくていいの?
ノリオ:  僕は貧困というものが本質的にという意味で悪いものではないと思っている。だからといって何もする気がないという意味じゃない。ただその二つは別のもので、関連性はないんだ。
アレックス:また分からなくなった。
ノリオ:  ジャッジメント抜きの観察が出来ない限り我々は被害者であり続ける。そして被害者とは変化を起す力を持っていない者のことなんだ。
アレックス:ずいぶん難しい考え方なんだな。どう説明されても僕には分からないと思うな。
ノリオ:  そうだろうね。僕のようなものの考え方をする人間は本当に少なくて、世界中の人間の99.9パーセントは違う考え方をしていると思うよ。
(中略)
 今言ったようなことはとても分かり難いことだろうね。僕も分かるのに、というか「そう体験する」までに50年間かかったよ。
 もう一つ君がビックリする考えを教えたいな。僕のことを頭が変だと思うか、ものすごく興味をそそられるかどっちかになるようなこと。
アレックス:聞いているよ。
ノリオ:  君が思っている君という人、それから君を知っている周囲の人たちがこうだと思っている君という人というのは、実際には存在していないんだ。それを僕は「ファントム・セルフ」と呼んでいるんだ。
アレックス:言っている言葉の意味は分かるし、その可能性もあるとも思うけど、僕がそうだと「と信じる」という意味ではないよ。
ノリオ:  「信念」というものはファントム・セルフの一部なんだ。ファントム・セルフだけが信念というものを「必要としている」んだ。僕にはもう「信念」というものは要らないんだ。信念というものは迷信と同じようなもので、本質的には違いはない。迷信というものが、我々がものごとを在るがままに観るということを妨げているんだ。信念もまた同じ。言い換えれば信念はジャッジメントの別の顔なんだ。
アレックス:そうなの。少し分かった気がするけど、全部とは言えないな。
ノリオ:  僕が君にこんな話をしたのは、話した内容を頭で理解してもらう為じゃなくて、少なくとも今までに考えてきたことの他に、それとは全く違う考え方もあり得るという可能性だけにでも気づいて欲しかったからなんだ。いずれにしても、これらの考えは「理解できる」という種類のものではなく、「体験する」しかないものなんだ。そして、体験するためにはジャッジメントぬきの観察によって得られる気づきが必要なんだ。
アレックス:今分かっていることよりもっと大きな意味があるという感じはしているけれど、今は一部しか分からない。
ノリオ:  そうだろうね。気づいたことを他の人たちにも伝えたくてこういう話を今までに何回か講演したし、どうしてこういうことに気づいたのかという経緯も含めて本に書こうとしている最中なんだ。
(中略)
 僕の気づきがどういう状態かというと、永い永い眠りから目が覚めて、周囲を見回したら、今まで「有る」と思っていたものが全部「無かった」ということが見えたんだ。
アレックス:じゃ、夢から覚めて起きなさいっていうこと?
ノリオ:  そう。夢から覚めると、あらゆる苦悩が消滅してしまうんだ。ジャッジメントも消えてしまう。苦悩はジャッジメントの結果なんだ。
アレックス:苦悩から解放され、「悟りを得た」ということ?
ノリオ:  僕は「悟り」とは呼ばないけれど、そういう状態を悟りの境地と呼ぶ人もいる。苦悩からは解放された。こういうととても傲慢に聞こえるかもしれないけれど、本当にそうなんだ。
アレックス:苦悩から解放されるってどういうこと?
ノリオ:  それは、ところで、僕は別に前よりも立派な人になったってわけじゃないよ。立派な人とかそうでなとかっていうのはジャッジメントだから。苦悩は幻想から来るんだ。そして幻想はジャッジメントが創り出しているもの。
アレックス:分かった。それで、苦悩が消えると幸せになるの?
ノリオ:  永い眠りから目覚めてまず達成できることは、ちょっと気取っているけど、幸不幸を超越するという意味での人生の達人になるということなんだ。僕は今幸福でも不幸でもどっちでもない。
アレックス:バランスが取れているということ?
ノリオ:  こう言えばいいかな。「いつも完全な状態にいて何も欠けているものがない」という状態かな。
アレックス:それって退屈なの、それともリラックスした感じ?
ノリオ:  全然退屈ではなく、実はこれまでとは比べ物にならないほど活き活きとしていて、情熱に溢れている感じ。
(中略)
アレックス:目覚めている感じってどんなもの?痛みも恐れもないの?
ノリオ:  その通り。全ての恐れはファントム・セルフの創っている幻想なんだ。
アレックス:死ぬのも恐くないわけ?
ノリオ:  死っていうのは明白なもので、我々は「誕生した際に同時に死を保証されている」わけだ。生まれるのと死ぬのとはおなじ線の延長上にあって、当たり前のことだから恐いものなど何もないわけ。
アレックス:じゃ痛みはどう?
ノリオ:  目覚めから痛みは経験していないけれど、でも今でも感じることはできると思う。痛みがジャッジメントの産んだ幻想なのかどうかはまだはっきりしていない。何かに打つかったら今でも多分痛みは感じるのではないかな。
アレックス:痛みって恐れじゃないかな。確かじゃないけど。
ノリオ:  そうかもしれないね。それで痛みがなくなったのかもしれない。デスクの角につま先を勢いよく何回か打つけてみたけれど痛みを感じなかったから。
アレックス:つまり、目覚めたほうが眠っているより良いということだね?
ノリオ:  そうじゃない。〜のほうが良いというのはジャッジメントだから。
アレックス:そうだった。
ノリオ:  今気がついたけれど、人間はみんな僕と同じ「目覚めた状態」にいるんだ。
アレックス:
ノリオ: 「状態」という表現はあまり的確ではないけれど。
アレックス:どういう意味?
ノリオ:  意味は、人間は一人残らず目覚めているんだけれど、他の人たちと僕との違いは「それを知っている」かどうかなんだ。その意味では誰かが誰かよりより覚醒しているということは言えない。人間は一人残らず「人生ゲーム」という芝居の出演者の一員で、例外はないんだ。つまり平等の立場なんだ。
(中略)
誰かが誰かより賢いとか気づきが進んでいるとかいう感じ方はみんなファントム・セルフの創っている幻想の一部なんだ。
(中略)
最近読んだ本で、僕の感じているようなことをそっくりそのまま書いたものがあった。
ジェド・マッケナ(Jed McKenna)という人の"Spiritual Enlightenment, The Damndest Thing"という本。
アレックス:じゃ、他にも叔父さんと同じように目覚めている人がいるんだね。
ノリオ:  彼によれば、それを言っている時点で、世界にそういう人が50人はいるって。
アレックス:たったの50人!
ノリオ:  その時点でということだから今はどうかな。僕は今人類は大量な目覚めの時期を迎えているように思うよ。

2005/12/30

翻訳:静流