今日の明日は明日の今日       コミュニケーション考

今日の明日は明日の今日

 まずはこのところちっともエッセイを書かなかった言い訳。

 「身のおきどころも無い」という表現がありますが、何かそんな感じで、ある事柄が決まらないと次のことがらが始められないという宙ぶらりん状態が数週間続いています。宙ぶらりんだってちゃんとご飯は食べているし、夜になれば寝るし、風呂にも入っているわけですから他のことも出来うる限りきちんとやっていれば良かったのです。エッセイを書くのもその一つです。ところが手に付かないわけ。

 家にもう一人家族がいます。この人は毎日自分の職分をひたすら果たしています。何があろうがあるまいが為すべきことは為しているわけです。雨がふろうがヤリが降ろうが朝起きると洗濯機を回し、門を開け、ゴミを出し、お茶をいれます。春先にフキノトウが出てくるとせっせと水をやって太らせ、スミレが顔を出すと周囲の雑草を抜きます。おかげで増えに増えて庭中スミレだらけ。文句言っているわけじゃありませんよ。今は頭を出してきたミョウガにせっせと金魚池の水をやっています。ミョウガ畑は始め一箇所にしかなかったのが今では四箇所あります。金魚も毎日池に新しい水を入れてもらって元気に泳いでいます。縁日で買ってきたフナみたいに小さいのが鯉みたいに巨大になっています。

 何の話だったっけ。ああ、宙ぶらりんの話でしたね。言いたいことは私にとっては宙ぶらりんの時がこの人には平常と同じだということです。

 今朝、後一週間で地球が爆発して無くなってしまうとしたらミョウガに水をやるかどうか聞いてみたら、勿論やるし、他のことも何ひとつ変えない、明日死ぬと言われても同じ、とお茶用のお湯を沸かしながら答えました。

 こういうのを平常心って言うのじゃないかしら。何も偉いお坊さんが大修行して到達するような大層な心の境地でなくて、日常の務めを当たり前にひたすら果たしていれば自然にこういう境地に達することもあるのだなと思いました。ちなみにこの人は70を少し過ぎた年齢です。歳をとって死ぬ時がだんだん近づいてきてもそれがたとえ明日でも別に何ということもなく毎日を過ごしていて、明日のことを心配したり思い煩ったりしないでいられたらいいですね。

「その日暮らし」をしてみようと思ったらエッセイを書く気になりました。自分の人生が宙ぶらりんだと思っていた昨日まで胃が痛かったのですが、今は大分楽になりました。心配事の原因が無くなったわけではないのにもかかわらず。

2004/04/17