うっかり       カナズチと風船

うっかり

 先日知人とある場所で待ち合わせをしました。私は時間には厳しい人間で、行き先までの所要時間を大分大幅に余裕をとっておくのですが、この日は何かと番狂わせな事件が起きて、約束の時刻に10分ほど(正確には11分でした)遅れてしまいました。息せき切って駆けつけると、先に着いていた知人が、「ああよかった。遅れたのね」と言うのです。その知人は私が普段時間に厳しいのを知っていて、自分が5分ほど遅刻したので、「もう気が気じゃなくて走ってきたらまだ静流さんが来てなくてホッとしていたの」とそう言います。

 たった5分遅れても人がそんなに気にするほど狭量な人間だと思われていたのかと驚きました。全く気づかなかったのです。私は割合に大様な人間だと思っていたのですから。それから気をつけて知人たちを観察していて分かったことは、周囲の人は私がうっかり何かを忘れたり、壊したりすると姿勢が軟らかくなるのです。それまでは少し緊張していた体が、ホッとしたように緩み、表情も和みます。

 以前、「私はビリがいいの」という題のエッセイを書いたことがあります。主人公の太母さんはうっかり屋ののんびり屋でした。そそっかしいことも頭抜けていて、母娘二人の女性の母親を娘と間違えたり、空港で知らない人に付いてどこか他のゲートへ行ってしまったり、自分がスピーチを頼まれている結婚式の日を忘れてしまい、その時刻にのんびり庭仕事していたりとハラハラし通しでした。そしてそんなにうっかりでも多くの人に愛されていました。まあそんなにまでうっかりでなくても、少しは隙を見せないと周囲の人は緊張するのだなと思いました。

 別に私は隙がない人間だという意味ではありません。あるのに見せないと言っているのです。犬や猫は警戒を解くと、ひっくり返ってお腹を見せます。人間はそんなことはしない方がいいでしょうが、でも、気持ちの上では警戒心をゆるめ少しゆったりとしているのが良いと思います。また、時々は調子を外して、平常とは違う姿勢になってみるのも良いことと思います。

 背の高い人ならわざと腰掛けて立っている相手に接し、時間に厳しい人は少し遅刻(少しですよ)し、徹底的に玄米菜食の人は白米と魚を食べ、おしゃべりな人は黙って相手の言うことを聞いてみる、というようにです。視点が変われば、違うものが見えてきます。違うものが見えるようになれば狭量は少しずつ改善されていくと思います。

 またまた反省モードの静流からでした。

2004/01/31