「愛するとは」   「忘れることと許すこと」


忘れることと許すこと

 もう十年ほど前のことですが、太母さんの講演会に見知らぬ男性が参加されました。お寺の玄関をその人が入って来た時に偶々(?)私が居合わせました。その時の印象は真っ黒い雲のようなものが渦巻きながら入って来たようでした。私の胸は早鐘のように打ち始め、喉元に何かが詰まったようになって挨拶をしようとしても声が震えてどうしようもありませんでした。落ち着くようにと自分に言い聞かせながらその人を会場の席に案内し、挨拶をしようと努力しましたが、涙があふれ出てきてまともに口をきけないのです。

「すみません。ちょっと気が動転してしまって。何かあると思うのですが、苦しくてお話ができませんので、失礼します」とその場を離れその後その人には近づきませんでした。講演の間その人は険しい表情で太母さんの話を聞いていて、途中で手を上げ、鋭い口調で質問をしました。それに対して、分からないと答える太母さんに、何か失礼なことを言ったその人は席を蹴るように立って出て行ってしまいました。黒雲はその人と共に掻き消えてしまいました。

 私の胸の苦しさもそれで消えたのですが、他の人にその人の印象を聞いて見ると、それほど大したことのようには感じていなかったようで、不思議に思いました。

 二年ほど前です、ある事業家に会うためにレストランに行きました。仲立ちをする知人が出迎えてくれ、一緒にその人の待つ席へと向かいました。その時に前段の男性に感じたのと似たような胸の苦しさを覚えたのです。二人の部下らしき人の間に座っているその男性を見たとたんにくるりと回れ右をして逃げ出したくなりました。落ち着くようにと自分に言い聞かせ、やっと席につき、話し合いをしたのですが、気もそぞろで、願うのは早く終わるようにとそればかりでした。

 以上二回の経験をのぞくと、見知らぬ人にあった途端にこのような思いをした経験はないように思います。単に不愉快とか苦手というのとは違う、もっと根深い、直接実存に関係するような脅威を感じたのです。生理的反応も激しく、胸は早鐘を打つようで、手の平にはじっとり汗をかき、のどが詰まり、どうしても話す声が震えてしまうのです。でも何故なのかその理由は分かりませんでした。

 先日スージー・ホルベックさんのJourneys through Time 1 という本を読んでいたら思い当たる箇所がありました。それによると、会ったとたんに非常に強い感情的反応の起こる相手とは過去生でも深く関わりあっていて、特に強い憎悪や嫌悪感を持つ相手には過去生で酷い目にあっているのだと言うのです。

 ホルベックさんは過去に、読むのも辛いほど何度も惨たらしい目にあった人です。首を切られ、毒を盛られ、石を投げられ、壁に塗りこめられ等々で何度も殺されたのですが、死ぬときに相手を強く憎んだのだそうです。そして今生で又自分を殺した人々に次々と巡り会っているのです。

 何故なのか?それはその人たちを今生で許すためだとホルベックさんは言います。言い換えれば許すまでは何度も巡り会うということです。このことを別の言葉で言うと「カルマの清算」です。どの人もどうしてもいつかはしなければならないのが「カルマの清算」です。どうせしなければならないのなら早くしたほうが後生楽なわけです。

 どういうことかと言いますと、自分の周囲にいる苦手な人、嫌いな人、憎しみを感じる人を許さなければ恐れから解放されることはない、ということです。人間はあまりにも辛い経験をするとそれを意識的あるいは無意識的に忘れてしまおうとします。多くの人は過去生を忘れて生まれてきますが、生まれてからの辛い経験は意識的に努力して忘れてしまわなければなりません。この「思い出さない」ために消費される生命エネルギーは多大なものがあります。単に単発的に辛かった体験だけを忘れるのならまだ良いのですが、そうはいかないのです。その体験を思い出すことにつながる多くの体験もみな押し殺してしまわなければならないのです。そして思い出さないように押し込める事柄の数と量が増えるほどに精神はがんじがらめに拘束され、多くの事にいわれのない恐怖や不愉快な反応を示すようになります。

 ではどうしたら良いのか。それには二つのことをしなければなりません。まず辛い体験を思い出すこと、そして自分を苦しめた相手を許すことです。思い出すためには助けが必要な場合が多いでしょう。催眠療法、過去生回帰、リラクセーションと瞑想などです。でも、思い出せなくてもあえて、勇気を持って、「許す」ことはできます。そのためには嫌いな人を直視しなければなりません。逃げ出したいのはやまやまですが、踏みとどまって向き合うのです。そしてその人が何故そういう人なのかを理解しようと努力してみるのです。理解できたら許せます。そして許すことで始めて忘れることが出来るのです。憎む相手は常に念頭にあって忘れることは出来ませんが許してしまえばその相手はその時から念頭を去ってしまいます。それが解放です。

 私が取った方法を一つご紹介します。まず、脅威を感じない程度に嫌いな人を選びます。そしてその人と向き合い、よく観察し、理解し、そして笑顔と温かい気持ちを向けるのです。すると、不思議なことが起きます。その人も笑顔になるのです。そして、温かい共感のエネルギーがその場に流れ始めます。そうすると、その人に似た他の人たちも嫌いではなくなるのです。嘘だと思ったら試してみてください。

 他のいろいろな技術の習得にも通じることですが、易しいところから始めて、練習を積んで、だんだん難しいことに挑戦していくのがいいと思います。

 最後は「誰も嫌いな人がいない 2 」、という素晴らしい開放感に浸れます。生きる達人の中野裕弓(なかの ひろみ)さんが言っていましたよ。「パラシュートと心は大きくひらくと使いやすい 3」 って。怖がっている間は心は開けません。

2003/06/21



1 Soozi Holbeche 著書"The Power of Gems and Crystals"", "The Power of Your Dreams", "Journeys through Time", "Changes."
2 注。こう言うと誤解を招くかもしれませんね。この場合の「嫌い」はその相手のことが常に念頭を離れないほどの強い嫌悪感と憎しみを指します。「少し苦手」とか「友達にはなれない人」というくらいはあっても精神を拘束されはしないでしょう。
3 http://www.ne.jp/asahi/romi/world/books/books.html#OHT