「ひとつの愛」 「必死は必至」


必死は必至

 ある朝脳裏に「必至」という熟語が浮かんで目覚めました。どこに必ず至ると言う啓示なのだろうと考えたら、今度は「必死」という字が目に浮かんできました。なるほど「人は必ず死に至るな」と思って納得しました。これだけは善人でも悪人でも(誰が決めるかによって変わると思うが)インテリでもパーでも、人種、宗教、性別、はたまたエコポイントの多寡に関わらずだれにでも平等にいつかは必ず訪れます。

 さて、必死の条件はまず生まれることです。生まれたからには必死です。そこで生の目的地は死と考えることもできることになります。ところが、どうせ必ず死ぬのなら、何故生きる必要があるのだろうと考えて意図的に寿命を縮める人が意外に少ない。こりゃ驚いた。あたりまえと思いますか。

 勉強せずにトップの成績になりたい。練習さぼっていてもスター選手になりたい。人に親切にしなくても好かれたい。いっぱい食べても太りたくない。働かないで楽に生活したいなどと願ったことはありますか。つまりプロセスは省いて一足飛びに理想の目的地に尽きたいという考えです。

 それとこれとどういう関係があるのだと思うでしょう。それがあるのです。人間は生まれてからずっと死ぬまで人生という道のりをたどっていきます。常に順風満帆という人など一人も知りません。どちらかといえば艱難辛苦の人生を送っている人の方が多いと思います。傍目にはたとえ苦労がないような人でも聞いてみればやはりいろいろあるのです。死んだらもう苦労はなくなるのに、それでも人は生きようとします。それこそ必死に。間を省いて一足飛びに苦労のない目的地にいこうとはしないのです。努力せずに、つまり何もしないで、好い結果だけ欲しいと願っているその同じ人が不満だらけで苦悩の多い人生を捨てずに生きていこうとしているのです。不思議とは思いませんか。

 実は人間には生存本能というものがあるからだと片付けるかもしれません。その通りですが、その生存本能を埋め込み、生命維持に必要な智恵を全部工場出荷時にインストールしておいてくれたような賢いデザイナーが、何故人間がそのあと苦労ばかりしなければならないような世界をデザインしたのでしょう? 考えてみてください。
 ヒントは「プロセス」です。

2002/01/16 菊池静流