Vol.6

「たら・れば人生よサヨウナラ」


 


 先日、ある都市で講演を終えて控室で休んでいたときのことです。スタッフ関係者という20歳ぐらいの女性が、深刻な面持ちナ私に話しかけてきました。

 「職場の雰囲気が悪くて悩んでいるんですが…先輩OLから何かとイジメを受けています。それも陰湿で絶対に許せないし、いつか仕返ししてやりたいと思うほどひどいんです。でも、そんなことを考える自分もイヤで…。先輩がもっと親切にしてくれたら、自分も素直でやさしくなれると思うんですけど…」

 私に悩みを相談する人が必ず口にする言葉があります。それは、「…だったら」「…であれば」という俗にいわれる『たら・れば』言葉です。

 多くの人は、その『たら・れば』の後に、そうありたいという自分の理想の姿を語ります。彼女の場合は“素直でやさしい人間”になりたいと思っているわけです。でも、それができないのを相手や条件のせいにしていることが、実は問題なのです。

 彼女の深層心理に目を向けると、そこには失敗することへの恐怖が存在していました。「自分から親切にしても、それが報われなかったらどうしよう」という不安や、「自分だけがやさしくするのもばからしい」という打算が働くのです。

 自分の理想像があれば、まず、そのように振舞う勇気をあげること。やさしい人間になりたければ、まず自分から人にやさしく接することです。それが自分への愛ある行為です。

 それを、他人が自分にやさしくしてくれるのを待ってから始めようと考えるから、一歩も前へ進めなくて苦しくなるのです。『たら・れば』をいい続けていては永遠に待ち続けるだけで、とうてい欲しいものを手にすることはできません。

 私は彼女に、「人をいじめるのは、不満がいっぱいで苦しんでる人だって知ってる?もし、あなたが先輩と全く同じ環境で育って、同じ不満や苛立ちを抱えていたら、一緒の反応をしたかもしれないわよね…。それに、人はやさしい人間には親切にしたくなるけれど、“親切は、する価値のあるときだけ”なんて思っている人に親切にしたいとは思わないものでしょ。あなたは、誰にでもやさしくできる自分にでありたい、と本心では思っている…だったら、あなたのすることは仕返しではなくてむしろ親切。しかも、あなた自身のためにネ。『たら・れば』は、行動を起こさない自分への言い訳なのよ」と伝えました。

 私たちは、余りに多くのことを恐れ怒って生きています。場合によっては、恨んだり憎んだりもするでしょう。

 でも、その心のままでは、いくらまじめに働いても幸せな人生が手にできるはずがありません。また、自分の生かされている命をつまらないものと決めつけて、幸福感がないのは当然だと思いませんか?

 なぜなら、自分から愛を発動しない者に、心の安息は得られないからです。

 愛は、取り引きでも、引き換え条件でもありませんから、何もやさしくした相手から、やさしくされるとは限りません。でも、宇宙を巡って、いつか誰かを通して自分のところに返ってきます。

 これは、愛だけに限らないすべての想念・感情についてもいえることです。そもそも人間関係は、自分の発したエネルギーを受け取る作業の繰り返しで作られていくのですから。

 愛は、自分に向けば勇気、自分以外に向けば感謝になります。

 だから、感謝の心をつねに忘れない人は、幸福に生きられる…苦難をも成長のための神様からのギフトだと感謝できる人は、もう人生に恐れるものがなくなることでしょう。

 与えるばかりの人生は、結果的に得るばかりの有り難い人生になっていくのです。

 今日から『たら・れば』人生に決別して、勇気を奮い立たせて“理想の自分”を生きましょう!

 



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