Vol.18「坐禅初体験」



 少林窟道場にご縁をいただいた私は、坐禅を組むために11月の1週間を広島の山中にこもりました。

 私がかねてより坐禅に関心を寄せていたのは、悟りの登竜門のように感じていたことと、8年余りの自らの瞑想経験を引っ下げて、禅の境地とは何がどう違うのか、この身を持って知りたかったからです。

 禅堂で老師の言われるままに何日も挑み続けたことは、一切の知識や思考を切り捨て、雑念が浮かぶ前の瞬間に執着し切ることでした。それは、体験してみなくては分からない知性を越えた世界であり、当然のように言葉では表現できない境地が、確実にそこにありました。

 瞑想と禅の違いを私流に表現するなら、瞑想は、静けさや穏やかさをストレス解放としてリラクゼーションの中で得ていくもので、やり方によっては、深い静寂を得られることもありますが、あくまでもストレス解放としての範ちゅうです。継続していくことで、心身共に安らぐと同時に活性化されますから、落ち着きが生活に反映されていきます。

 一方禅は、浮かぶ雑念を切り捨てる戦いに始まり、今という一瞬を離さないでただ今になり切っていく。そして、今になり切っていることをも忘れることでした。そのためには坐禅中ばかりではなく、歩いているときも食べているときも、すべての行為がただなされ、一瞬一瞬で完結していることを体得していく生活そのものが禅修業です。それができていくと、一切のとらわれから解放され、全き静寂(無・空)を自らの中に得ることができます。それが解脱であり悟りです。

 私は、これまでに「今・ここ」に生きていくことの大切さは理解して私なりに語ってきました。「今・ここ」に生きることで、イヤなことがあってもとらわれたり引きずったりしないで、新たに今自分にできることを作り出していける人生がいいと確信していたからです。人生にはチャンスしかないとも豪語してきました。

 禅の世界は、そんな私に、本来はプラス発想や叱咤激励の自慰の想いすら必要ないことを知らしめたのです。私の「今」は、漠然としていたことに気が付きました。1分だったり1時間だったり今日だったりしましたし、「ここ」は、自分の環境という大きなものを指していました。

 しかし、禅でいう針の先で突いたような今・ここの瞬間に生き続けるならば、静寂を見失う一瞬も気分を一新する必要も、そこには存在の余地がないのです。一切の念は、生じては消滅していくだけで今に留まることがないのですから。

 私は、始め自分の心の癖をいやというほど思い知って苦しみました。雑念は切れるのですが、機能や反応をすぐ言葉にして考える癖をなかなか手放せなかったのです。

 りんごを食べていて、「それはどんな味ですか?」と尋ねられれば、『りんごはりんごの味だしなあ』と瞬時に頭が答えます。それが次第に、『それは、出合った瞬簡に存在して消えている…』と感じるようになり、でも、まだそれを認識している自分がいました。

 そして、ようやく5日目に、全き静寂の中で何もなく自分さえもない…という体験をしたのです。一切がないのに、すべてのものがただ縁によって顕われ、そのままそこにある…本当の事実の世界を垣間見たのでした。

 私たちにとっては日常といえる過去の経験や言葉から得た「情報の世界」と、現象である事実の世界、つまり「無我の世界」とは、まったく違うという重大なことを確信したのです。

 迷いとか不安によって起こる葛藤とその苦しみのすべては、この二つの異なった世界を区別して認識できないために生じることが分かりました。それが明らかになった瞬間、人間のあらゆる精神作用も、一瞬の作用であり一瞬の現象に過ぎないことを知ったのです。

 すべてがあって何もない、一切のこだわりがないこの"無"の境地が、色即是空・空即是色の世界であり、自他一如の絶対平和の境地であると後で教えられました。

 この解脱のプロセスは、知性に頼って観念的にいくら思考を巡らせても決して到達できないということでした。私は、ただただ涙しました。私が命がけで欲っしたものは、私の心から何にもなくなって空っぽになることだったのです。

 空っぽになると、天衣無縫・無邪気になって慈愛が溢れます。こだわりがなくなって真に生きていることが自然で楽になり、何事に対してもただ見聞きできるようになります。この世からすべての殺戮をなくし、全世界の人々が敬愛し合って幸せに暮らすには、この境地を会得するのが一番早い!とつくづく思いました。

 日常に戻った私は、これから社会生活の中で禅の心を生きていく気構えですが、背後から老師の声が聞こえてくるようです。「それは悟りのさわりじゃ。分かることと成ることは違う。それに、悟りは始まりに過ぎませんぞ。悟ったことをも捨ててこそ、衆生救済の域に達す。今じゃ。本当に今だけじゃ」と。

 井上希道老師は、初心者にも分かりやすく確実に禅の精神が得られるように独自の坐禅方法を編み出され、熱心に指導に当たられている方です。「人の体験は実に様々で反応もそれぞれだが、行き着くところは皆同じだ」とおっしゃっていました。

 興味をお持ちの方は、少林窟道場HP http://www.potato.ne.jp/~zen/をどうぞ。

 



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