あなたはこれまでの人生で「死んでしまいたい…」と思ったことはありませんか? 近年は特に40〜50代の男性の自殺者が増加して、リストラを含む困窮した経済が中高年を追い詰めているようです。

 自殺に至る心理を分析してみると、生きる姿勢が浮かび上がってきます。自殺は、その状況下に置かれた自分を愛しそこなった結果なのです。

 まずは自殺の動機ですが、何よりも重大で渇望していたものが得られなかったり失う事態が生じると、人は絶望と自分への無価値観に身をやつして死にたいと思い始めます。

 一般に喪失対象は、恋人・名誉・収入・自信などで、その人やその事といった一点に執着し、一切の妥協はありえないと思い詰めてしまうのです。さらに、世間の責め苦や評価に胸を痛めて恥じの意識やプライドに苦しみ、それに堪えられなくなるケースもあります。

 また、自殺は2つの目的を達成するための最終手段と考えられます。一つは、「自分を亡くして、惨めな人生をチャラにしてしまいたい(逃避)」もう一つは、「自殺することによって、誰かに思い知らせたい(証明)」というものです。

 この衝動に襲われたとき、多くの人は思うだけにとどまって何とか現状を乗り切ろうとしますが、実際に自殺に走る人は、目的達成のために"積極的な衝動"(薬物による場合もあり)と意志によって事を起こします。

 では、「死にたい!」「死んでやる!」という衝動にかられたとき、人間はその暗い淵からどのようにしてはい上がればよいのでしょうか?

 それには、『人は絶望すると自分が見えてくる』ということを知って欲しいのです。この言葉の意味するところは、絶望の淵では、人間は見栄もごまかしも他に行き場もなくして裸になります。その裸の自分をただ見つめてみなさいというものです。

 もうイヤという目の前の現象にばかりとらわれていないで、自分は何のためにこの体験を味わっているのか?それでもまだ生きているのは何の力か?と自分に問いかけます。すると、人生の本来の目的や生き方を見つめ直す素晴らしい機会が訪れます。

 感情的にどこかで自分を責めたり同情していた興奮が落ち着いてくると、悲しみや怒りは消えないにしても、「もう済んでしまったこと」「これ以上失うものはない」「死んだ気になれば怖いものもない」と思えるようになってきます。

 何もかもなくしたと感じている裸の自分と向き合っていると、「それでも心臓は動いている」「まだ動ける体がある」ということを感じ取る感覚が甦ってきます。そして、つらい思いをした自分への愛を徐々に取り戻して、「もう1回立ちあがろう…」と再び歩き出す勇気が涌いてくるのです。

 人生には必要でない経験も、乗り越えられないような試練もありません。私たちは、遭遇した現実を受け入れたときに、別の次元の力が湧いてきて発想の転換が起きるような仕組みになっているのです。生まれ変わる感覚です。

 ただ、そのすべてを受け入れることを拒んで、最後の手段として自殺を使う人もいるというだけです。でも、もし自殺者が至福の境地で命を絶ったとしたら、話は全く別だと思います。いかなる境地で死ぬかは、いかに生きたかと同じだからです。

 あなたが自殺は考えないまでも、裸の自分と向き合わざるを得ないようなハードな経験をし続けているとしたら、それはあなた自身を大きくするために用意されたプログラムだと知ってください。しかも、実は自分の魂が選択した…。

 魂にとっては、失恋しようがお金に困ろうが家をなくそうが関係ありません。あなたがどんなときもいかに深く自分を愛するかだけが大事なのです。私たちの魂は、愛することを学んでいくという目的を持ってあえて肉体に入ると決めたのですから。

 だから、宇宙はとことんいろいろな状況を与えてくれます。その内容に優劣や幸不幸があるのではなく、体験として、あなたが常に自分を愛するか愛しそこなうかがあるだけなのです。

 



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