「わしの教えはわしを見れば判る」とよく言っていたように、実践できないことは教えない人でした。何を実践していたのかと言うと、次の一言に尽きます。

最小限度の消費でもって最大限の幸福を得る

 贅沢という字は贅、つまり無駄、その無駄が沢山ということ。無駄沢山して人間以外のあらゆる者を犠牲にして、毎日毎日要らない物を沢山製造して、ゴミ一杯にして、まあそれでもすぐに腐るゴミは良いけれど、何千年も腐れないゴミやら、空気や土や水を毒にしてしまうゴミを作って、それで幸せになれるはずなかろ?

 著書の『舟を岸につなぎなさい』の中に、潜在意識が容認しているもの、という項目があります。潜在意識ですから真我顕現を果たしたような覚者でない限りは、その動向を全部把握することはできません。自分でも何故か解らないけれど至福(環境や他者に依らない、混じりけなしの、比類なき幸福感)を味わうことはできないというのが多くの人の悩みだと思います。至福とまではいかなくても、まあ大体穏やかで平和な気持ちで、人にも無理なく自然に優しくできる毎日を送っているという人もそんなにはいないでしょう。       

 何故幸せでないかと言うと、贅沢して他者を犠牲にしているのを知っている潜在意識である真我が決して納得していないからだと太母さんは言っているのです。その前に潜在意識という真我の説明をしておきましょう。個々の人間という存在を図式にして表すと、中心核のような内的部分に自然と一体の叡智を持った内的自我があり、その外側に自己保存の本能を持った、少し自己本位の部分が形成されています。内的自我を真我、外側の自己本位の自我を外的自我と呼びましょう。何故図で外側にしたかというと、外側が他者に接して競合している部分だからです。

 さて、真我は自然と一体の存在ですから、自然法則に由って行動します。自然の法則を犯すような行動を外的自我がとると、抑止しようとするわけです。抑止の方法はいろいろあります。結果としてそのような行動がとれなくなればいいわけですから例えば飲食し過ぎる(無駄が沢山)と病気になります。この例は比較的解りやすいのですが、よく因果関係が見えない例が多いのです。それでもおおざっぱに言えば、心から歓べない生活をしていると幸福ではないということです。

 太母さんは簡素な生活を実践していました。食生活は、その季節季節で豊かにあるものをあまり濃い味をつけずに、加熱もあまりせずに、皮も尻尾も骨も根っこも芯も捨てずに全部食べていました。ゴミもあまり出ないし食費もわずかでした。着物は夏冬ほとんど同じの裏無しで、冬は枚数が一枚多いだけでした。裏無しだと自分で丸洗いできるからで、実際に他人の手を煩わせずに自分で始末していました。住居も金目の物など何も無いガランとしたもので、掃除が楽です。泥棒の心配もありません。洗濯機も掃除機も冷蔵庫も暖冷房器具もありませんでした。冬はコタツだけです。(今は違います。念のため)

 これは冷蔵庫や冷房装置があると即不幸せになると言っているのではありません。ただ、自分が心から納得できる生活を自分が実践しているかどうかを各自が徹底的に問い詰めていく姿勢を持つことが大切だと思います。自分が納得できたらそれで良いのです。他の人をまねても、納得できなかったら無意味ですから。

 太母さんを愛する人たちは同じ生き方ができないからといって自分を責めないで、先ず自分が楽しく、明るく生きてみて下さい。そうして太母さんの言うように、幸せをふりまいていってください。