光顔巍巍(こうがんぎぎ)

太母さんの好きな経文の一節。
大無量壽経にある讃佛偈(如来を讃美する文)

こうがんぎぎ   いしんむごく
光顔巍巍    威神無極
にょぜえんみょう むよとうしゃ
如是焔明    無輿等者
にちげつまに   しゅこうえんにょう
日月摩尼    珠光焔耀
かいしつおんぺい ゆにゃくじゅもく
皆悉隠蔽    猶若聚墨

 如来の容姿というものは限り無く光り輝いているもので、その光りの強さは何ものも比べるものがない。どの位明るいかというと太陽も月も宝石の輝きも全部集めた光りなど皆覆い隠してしまってまるでそれらが墨のように黒く見えるほどのものである。
 こういう光は目には見えず心でしか見ることができないので心光とも呼ばれます。目に見えないのでいくら明るくてもまぶしくないわけです。そしてその光にはその性質を現わす様々な名称がついています。以下は正信偈(しょうしんげ)という経文にあります。

 止まるところをしらずどこまでもそして普く全てを貫き照らすので
  普放無量無辺光(ふほうむりょうむへんこう)
 対象にあたっても影をつくらずどこもくまなく照らす光の王なので
  無碍無対光炎王(むげむたいこうえんのう)
 清らかにして喜びしかもたらさない智慧そのものでもある光なので
  清浄歓喜智慧光(しょうじょうかんぎちえこう)

 なんだかルビがいっぱいになってしまいましたが経文の字は呉音(漢音に対し)読みなのでお節介かもしれませんが付けました。

 さて、如来というのですから来る如くと読めます。何が来る如くなのでしょう。まてよ如去というのもあるぞ。来る如く去る如くの如くって何だろう。〜のように見えるという意味です。のようだけど実際はどうなのか見分ける間もない、あっという間に来たり去ったりする極度に速い何かです。ここでは当然強烈に明るい光ということに なります。如来はあまりにも速いので来たのも去ったのも見えないくらいの光なのだということです。

 目にも止まらぬ速さの光は普く照らす、何ものにもさまたげられない、この上ない喜びをもたらす智慧の光だということになります。普く照らすのですから当然あなたも私も大好きなだれかさんもそして大嫌いなあのひとも平等に照らされています。さまたげられないので、たとえ嫌だといって拒否しても照らされています。絶対にして平等の光が目に見えない方の智慧の光でその素晴らしい光に包まれて育まれているのが私達生きとし生けるものなのですから、もうそれで十分幸せで喜びに充ちていられる条件がそろっているわけです。素直にそう感じられたら幸せでいいですね。

2001.2.3 静流