掌中の珠

うたたねをしていたら掌(てのひら)にまろやかな感触がして、そのあまりの心地良さ にしばしうっとりとしていた。

『 これは何の感触に似ているのだろう?』考えても思い当たらない。その間も手から幸 せな感じが全身にやわらかく拡がっていく。霊気とも違う。レイキヒーリングの際はほん わか暖かい感じだがこういうふうにまろやかなすべすべした感じとは違う。しかも暖かく も冷たくもない、只すずしい感じである。

眼を開けると掌に太母さんの足がのっていた。腰をかけている足下の床の上で眠ってし まったのだった。動くと足を引かれそうなのでじっとしていた。 意 識を更に鮮明にして、その感触を脳に刻み込む。霊気をはじめてから掌が敏感になっ てきているので、手の細胞の一部が米粒が立つように他の集団から独立してよりはっきり と触感を味わっている。透明な白金色の珠が手の中でするすると転がっているイメージが 脳裡に浮かんでくる。

『 わたしは何も思わない』静かな太母さんの声が記憶の中からよみがえってきた。話を しなくなった太母さんの傍にいると、昔聞いたことのみが時折ぽつんぽつんとよみがえっ てくる。聞いた当座には解らなかったことが、自分が年令を重ねて酸いも甘いも沢山経験 してくるとだんだんに解ってくる。「無心」でいるということがいかに難しいことかも 解ってきた。欲を捨てて、怨みを忘れて、身軽になって、それでも残った欲と怨みを憎ま ずに自分を許し、そして愛してやっと肩の荷がおりる。

いつになったらたどりつけるのか判らないが安心立命の境地を一つの目的にするように なったら、それまで必要と思っていたことのほとんど全部が要らないものだったのだと 判った。心の平安があってはじめて無心になれるのではないかと思う。無心になろうと 思って瞑想しても出てくるものは雑念という騒音ばかりだった。

『 こんな私が私は大好き』と言ってみたら?と教えてくれた友がいた。その人だけでな く、何と沢山の人が英知を内に秘めてだまって生きているのだろう。それに気づかなかっ た愚かな私が私はむしろいとおしいと思えるようにもなれた。幼い人や若い人を見るとそ のたどたどしさが今はいとおしく感じられる。これから多くの素晴らしい体験を積んでま た大人になっていかれるのだと思う。

私が何をしても太母さんは咎めたことがない。だまって見ておられたのだ。親になる大 人になるというのは黙って見守るという忍耐を積み重ねていくことなのではないか、子供 を育てたことのない私はそう想像するしかない。

生身を持った人間の親でさえ、それぞれの限界を抱えながらも子を愛し見守り育ててい るのだから、命の源の天の御親の愛の深さと忍耐はどれほどのものかと思う。ただ、きっ とその愛の感触はなめらかな金色の珠の転がるようなものなのではないだろうか。ほんの 掌にのっただけで幸せが全身に拡がるような。

静流 1999.12.16