母の手紙

 

 ここでご紹介するのはある雑誌に掲載された母から私への手紙です。昨日書類の整理を

していたら出てきたので、読んでみて、涙がでるほど有難く嬉しかったし、親の愛情とい

うもののひとつの形を皆様にも味わっていただきたくて、書きました。

雑誌の中の以下の分類の下にありました。

 

 

●教化を考える

 

娘、しずるへの手紙

 

本当の人生は、“絶望”した時から始まってくる。絶望したいような事柄に出会った

“時”こそが、発ぷんの時、つまり福音の訪れと思って真実の自己との闘いを始めよ。

(前言)私の娘の夫は、ある訓練を受けていましたが、不合格という結果にぶつかり、

二人とも些か衝撃の様子。二人は外地にある自宅に帰るため、飛行場からこの報告を私

に伝えてから出発して行きました。

 

 静流、飛行場からの声、何となく物悲しげで、お母ちゃまの心に尾を引きました。それ

でこの手紙を書きます。

 静流の場合特にいろいろ変化に富んだ生活があると思う。変化の度に人は考えさせられ、

気づかせられ、行動意慾が刺激されて、深みを増し、密度を加えて、人間が出来ていくと

いう寸法。面白味のある人生は()うして生まれる。

 私はお前の父上が失意にあられるような時は、私が彼を大変に大切に思い尊敬している

ことを、それとなく知らせるようにしました。

 又無職の時は、最も朗らかに振舞いました。何故って、不要のものを作る事によって回

転している人間界に背中を向けて、専ら自然界に親しむよりほかない無職者の立場は、本

来から言えば理想的立場なのだから。しかし夫が無職だと収入が乏しい。それでお母ちゃ

まの生涯は、一言にしていえば、最も少なく物を消費して最も豊かに自然界という名の極

楽世界からの福分(ふくぶん)[]享受(きょうじゅ)する。という工夫だったと思う。自然なる万物(ものみな)はそのままで、

 

 それぞれに美しき宝なり

  われもまた

 

 時の流れで諸事贅沢(ぜいたく)な今の世だから、まして贅沢な都会に住んでいた静流は、何時の間

にか人工の贅沢品に慣れて、(およ)そ贅沢とは無関係な、何でもなげな(注。何でもないよう

に見える)ものばかり大切にするお母ちゃまを面白がっていたかもしれない。

しかし、お母ちゃまに取っては、何でもなげなもの程素晴らしく見た。又事実それは素

晴らしいものであることを私はよく知っているのです。

人間によって加工されていない、曲げられていないものは、生命そのもので、さやさや

と息づいて、声なく香しい歌を唄っている音楽家達なのです。

この香しい自然界の音楽家達を連れて来て、その歌声をうばい、その香しい生命を停止

させるのが、いわゆる人工。

 何時か静流は鎌倉(注。実家)に来て、テーブルの上の紫の色しみ入るような都わすれ

の花を見て涙を流したろ。よくもけなげに咲いてくれると言って。こんなに人間に傷めつ

けられ、どんどん自分達の土地を狭められ(なが)ら、まだ怨みもしないで美しく咲いていてく

れると。

 お母ちゃまにも何を見てもあのような感じが湧いて、何も彼もが素晴らしく、有難く、

勿体なく見える。私が物を見ている時は恋人を見ているのです。物を食べる時は恋人と結

婚する気持ちです。恋人の頭から足の爪先まで尊重するので、根も茎も葉も実も実の皮ま

で大切に大切に取り扱う。骨から頭から尾っぽまで貴重なものとして粗略にはしない。

静流にはおかしく見えたかも。しかしそうじゃない。お母ちゃまは満足しているのです。

満足の上に満足している証拠は、お母ちゃまを見る人、思う人まで(たちま)ちに心安らう事であ

ります。ノイローゼの人さえ和む。そのわけは、私に喰べられた恋人達は、私の中で満足

して、音楽を奏し続けているからです。私に着られた恋人達は、私の身を包んで音楽を奏

し続けているからです。

こうしてお母ちゃまは、どんな些細な事からでも、物からでも、幸せな思いを受けるこ

との出来る器になっているってわけ。

静流、

斯うした器になっていれば、世に不幸も不平も不満もない。失意も不慮も事故もない。

もしあっても、それは忽ちに消える根無し草。

何の恐れもものもなければ、構える必要もない。従って自分に連れ添う者も、ひとりで

にその気配を受けて気宇壮大[]、情緒こまやかになり、如何なる事に直面しても動じない

人になる。

先ず、

少量の消費によって大量の福分を受ける工夫をしなさい。今、静流は夫からその機会を

与えられているのだと思う。

この心掛けのない者は、一生心の安らいを知らずに過ぎるのではないかと思う。

ともかくも今度の機会を最大の喜びに替えて、彼にゆとりのある気持ちで行動出来るよ

うにしてあげなさい。

お母ちゃまの事は心配する(なか)れ。人間界の事にはうとけれど(注。うといが)、心と身は

極楽界の住人として常に安らいでいるのは静流も知る通りだから。まして静流という世に

頼母(たのも)しい実を持っているのだもの。

フレーフレー静流。

フレーフレーって、つまり、発奮の奮の字を書くのかも。何処の言葉やら知らねども通

じる言葉ね。

さて、

静流達、どんな方向に発展して行くやら楽しみ。

では静流大らかにあれ。

彼にお母ちゃまがウインクしていると伝えて。

 

一九七四年九月一日



[] 仏教用語で、夫々の人がその積んできた善行あるいは修業の結果天から授かった幸運あ

るいは持ち味を言う。またこの福分が何かに気づいて、人々と助け合って行くことを「福分(ふくぶん)

把持(はじ)」と言う。

[]物事に対する心がまえが大きく立派なこと。