あれから二年

 今月には太母さんの三回忌があります。亡くなって丸二年が経とうとしています。その間に様々な体験をしましたが、どれもみな以前とは違って、心の中に住んでいる太母さんと一緒に体験したのです。 生前はそうではなかったのです。

 「太母さんと一緒」と無言でいうのが癖になってしまいました。伊豆の山で秋の青空を見ていると、「美しいのう」という声が聞こえてきます。じっと見つめていると目の中までが澄んで涼しくなってきます。  庭の梅の花の匂いをかいでいると、「ああいい匂いじゃ。もっと」と言うので更に吸い込みますと、頭の芯まで爽快になります。

 「海岸で足を水に浸していると「ああ、ええ気持ちじゃの。楽しいね」という声が聞こえます。水をバシャバシャはねちらかして遊んでいると足の気持ちよさが全身に広がってきます。

 夏に訪ねた外国の友達と久しぶりに会って抱き合っているともう一人背中に加わって更に強く相手を抱きしめ始めます。そうするとその友達が驚いて、「あっ、太母さん?」と言いました。それからその友達は目に涙を浮かべて、「なつかしいね。太母さん」と言いました。

 五感に訴えるもの、心に響くものの多くがそれ以前よりも奥行きを増したような気がします。深く感じ、喜び、その喜びをより多くの人と共感し合えるようになったと思います。

 嫌いな人も少なくなりました。「みんな必死で生きているのだ」という声がよく心に響きます。必死なればこそ苦し紛れに嘘をついたり人を傷つけるようなことも時にはしたりするのだと思うとあまり人の行為によって感情が揺れ動かなくなりました。

 「わしは生まれてから悪人など一人も見たことがない」と言う言葉の意味が少し解ってきたように思います。そう言っている太母さんの声の透き通った美しさが胸に沁みこむように心を打ちます。世界中の人の大多数が苦しんでいる原因は飢餓よりも病気よりも戦争や暴力の脅威よりも、愛の足りなさなのではないかと思います。

 だれも自分を本当に愛し、気遣ってくれる人がいないし、今までもいなかった、という孤独と人間不信が心を蝕んで、病気の原因になり、怒りが暴力を生み、暴力がさらに報復という暴力を生み、人間不信が物欲金銭欲を強くし、富の偏在を招いていると思います。諸悪の根源は「愛の不在」なのです。

 だれも愛してくれないと思っている人はだれかを愛したことがあるのでしょうか。まず愛することから始めたらどうなるでしょう。たとえすぐには返ってこなくてもいい。そのうちいつか共感してくれる人も現れるさ。めげちゃだめよ。そう自分に言い聞かせてみたらどうかしら。

 愛は始めは溢れるようにはないかもしれません。少し示しても効果や反応がないとすぐめげるのは絶対量が足りないせいです。でも流しているとだんだんに量が増える気がします。ちょうど空井戸に「呼び水を」入れると中からどんどん水が出るようになるのに似ています。水をくみ出せば出すほど井戸は豊かになるようです。

 呼び水となる愛はだれかをシミジミとなつかしく思う、またはいとおしく思うということだと思い当たることがありました。太母さんをなつかしく思う時流れるのは愛だからです。また人間には失望したので、愛を注ぐ相手はとりあえずペットという人も多いと思います。ペットへの愛に溺れてしまって人間にまで愛が回らなくてもしばらくは仕方ないでしょう。何しろ相当傷ついちゃってますから。でも、そのうち癒しのプロセスが終わって余裕がでたら人間へのやさしい思いやりも生まれてくるかもしれません。ともかく何かを愛したいという気持ちが根底に流れているのは確かなのですから。そして愛の足りない世界で「みんな必死に生きている」のです。人の心の底にはみな小さな子供が住んでいて、ひたすら愛と歓びを求めているのです。

 空を見ても、梅の花の香りをかいでも歓びに浸れる人には人の愛はそれほど必要ありません。むしろ内から湧き出る愛を足りない人に降り注ぐ方の欲求の方が強いかもしれません。太母さんはそういう人でした。

2003/11/03