あれは母が八十七歳くらいの時でした。少し記憶があいまいになってき始めてきて東京に住んでいてはすぐに駆けつけられないと思いあまり遠くない所に引っ越した後のことです。毎朝様子を見にお寺に行き、誰もいなければ食事の支度をして帰りました。

 何日間か滞在すると言う人があったので二日ほどお寺に行かなかったのですが、夜の八時過ぎに近所の知り合いから電話がかかり、今日は私がお寺に来る予定ではないのかと聞くのです。予定はなかったと言うと、その人は通りすがりに最寄駅の階段の下に座っていた母を見かけてどうしたのかと尋ねたところ、娘の帰りを待っていると答えたそうです。寒い晩でコンクリートの階段に座っていては体も冷えると心配し、家まで送りましょうと言うと素直に立ち上がって歩き出したそうです。寺に帰って私の電話番号を調べ、知らせてきたという次第です。どうやら滞在者は早めに帰ってしまったようです。

 飛んで寺に行くとその近所の人もホッとした顔になりました。ずいぶんと顔色が青くて心配したそうです。母の方はというと私の顔を見たとたんにパッと顔が輝いてすっかり元気になりました。少しも恨んでも、怒ってもいないのです。その夜は泊まり、翌月私はお寺に引越しました。

 今思うとあの時あの事件があって本当に良かったと感謝に耐えません。亡くなる前の六年間一緒に暮らすうちにそれまでのわだかまりが次第に解けて消え去り、最後には母が好きでたまらなくなりました。夜半様子を見に寝室に行くと私を見てパッと輝くその顔が今でも心に焼きついています。

 誰がそれほどまでに愛し信頼してくれるでしょうか。親なればこそと思います。親子は近し過ぎてかえって自我が剥き出しになり、衝突しがちでしょうが、最後を看取ることができないとどんなに後悔するか分からないと思います。後悔してもその時はもう遅きに失するからです。忙しくてそれどころではない働きざかりの壮年期の人に親と出来るだけ付き合いなさいなどと言えば余計なお世話と言われそうですね。また、自分の親はそんなに可愛くないと言いたいかもしれません。でもまあ聞いてください。

 知人の占星家の所に見えたある女性の相談内容です。ずっと仲の悪かった母親との間がいよいよ険悪な状態になってきて気が重い、どうしたらよいかと。占星家はその女性に吝嗇(ケチ)の星が付いているのを見て、「時々親に小遣いをあげているのか」と聞きました。親は自分より金持ちだからそんな必要ないと答えるのに対し、「そんなものではない。親が子供に小遣いをもらったら、嬉しいのはその心遣りで問題はお金ではないのよ」と叱りました。その女性は言う通りに親にお小遣いをあげました。その時母親の顔がパッと嬉しそうに輝いて、その日は和やかに過ごせたそうです。その後は親子がどんどん仲良くなっていって今は何の問題もないそうです。

 これは単純な例かもしれませんが、どんなにこじれてしまっていても多くの場合原因は親子双方が我を張り合ってきた結果だと思います。親の方の我を折ろうとして今まで頑張ってきた結果は失敗だったのはもう分かっています。残る方法は自分が我を折ることです。そして優しい思いやりをもって接してみてください。家事その他を手伝ったり、話し相手になったりと。その際気をつける必要があるのは親が何をすると喜ぶかを注意深く観察して把握しておくことです。

 「私の娘は痒いところは全部はずして何ともない所ばかり掻くんだから」とこぼしていたお年寄りがいましたよ。

2003/04/03