小田野先生の教え


まず、めいは命波(ミコトバ=実光透波)を生きるということをかいつまんで書きます。


嘘をつかない
  人にも自分にも決してつかない
責任を果たして生きる
  権利なんていうものは宇宙にはない。責任あるのみ
解らないことは字に聞く
  解っていると錯覚していただけのことがほとんどだと判る(謙虚になりなさい)
人に聞いても大体間違っているので、鵜呑みにしない
自分が納得するまで検算・検証して確かめる(自分の問いに責任を持つこと)

    宇宙は「絶対止速」(相対速度ではなく、至高のスピードを表す熟語)の光のバイブレーションで出来ている。これを光透波と呼び、言葉と区別して認識する。人間が相対的、つまり二元的思考で日常使っている言葉は光透波が土台になって出来ている。光透波は神なのだから、嘘をつくということは神聖への冒涜行為ということになる。従って約束したら必ず守るのは当然。これは責任を持って生きるという行為を意味する。光透波(あるいは詞)という至高の光はまた絶対至高の叡智そのものであって、それより遅い光(相対の光)は完全無欠の叡智ではない。人間はまだ絶対の光ではない。絶対光なら肉体を貫いて全宇宙(真正の絶対宇宙)と同質になってしまうので、肉体は無くなってしまうはずだからである。肉体を持って生きているということは相対の現象界で生きているという意味になる。人間の肉体という境界の中で唯一「絶対」に通じている場所は頭の中の真ん中(松果体の辺)に座している真空の一点のみである。この「場」は宇宙の真正の詞である実光透波を受信するセンターである。この受信センターが受けたバイブレーションを「頂いた命波=實光透波」として、それに触発されて為す行為が考えるというもので、これは人間にのみ与えられた機能である。人間としての責務を果たすということは「頂いた命波」を一生懸命考えるということである。(勿論何も考えないで生きている人間は一人もいませんが、一生懸命考えている人は少ないでしょう。懸命とは命がけという意味ですから。)

 こう書くと小田野先生の教えは難しく感じられる方もあると思います。でも難しいというのは一体どういう現象なのでしょう? 本を例にとりましょう。易しい本だと感じるということは既に解っている事柄が大方の内容の本だということだと思います。既に解っている事柄ばかりの本を読んで何の益があるのでしょう。単なる娯楽です。真理を問う人にとってはあまり面白くない本だということです。反対に難しいからこそ、それが理解出来たときの達成感や満足感を味わうことができるのだと思います。人は何故高い山に登るのでしょう。どうせ降りてこなければならないのに。人は何故生きるのでしょう。どうせ死ぬのに。コンピュータゲームで高い得点をし、レベルが上がる毎にさらに難しくなるゲームを何故続けるのでしょう?

 答えはもうお解りだと思います。人生とは挑戦なのです。スポーツ選手にとっては肉体的限界への挑戦でしょうし、霊的覚醒を目指す人にとっては自己の持つ精神的限界への挑戦です。昨日よりは今日、今日よりは明日と、より高い目標に向けて少しでも近づくようにと努力を続けることが充実して生きるということだと思います。毎日毎日の精進が大切なのです。

2002/02/02 菊池静流