何故字分けするか

 

小田野先生に、「字を分ける時はありのままの自分を分けるのですよ」と言われたことが近頃身に染みて納得できるようになりました。同時に研修生や受講生に字分けは難しい、どうやってもうまく出来ないが何故なのだろうと訊かれ、昔自分も同じ思いをしたことを思い出します。

私なりに何故字分けは難しいのかを探った結果いくつか発見したことがあります。

 

ありのままの自分を分ける為にはまず、「ありのままの自分」を見る用意が必要です。これをするのにはまず次のことを認めることが必要です。

人生で降りかかってくる問題の原因は全て自分がその発生源である。親のせいでも、社会構造のせいでも、会社の上司や同僚のせいでもない。従って、課題として頂いた文字は自分の問題として見る。事故は自己の反映なのだ、ということです。

 

「他人の頭のハエは追わずに自分の頭のハエを追え」という言葉がありますが、そういう意味だと思います。

 

何よりも自分に正直であることが肝要なのです。ところがこれがなかなか難しい。何故なら自分が何を思っているか、何を望んでいるのかを多くの人は知らないからです。潜在意識は顕在意識の何層倍も大きな倉庫なので、その倉庫に何があるのかは実に持って測りがたい。従って、自分は自分をほとんど知らないのだと認識することが肝要なのです。ほとんど知らない自分を発見するために、片鱗として現象してくる問題、言い換えると、潜在意識という巨大な記憶蔵から泡のように浮かび上がってくる現象(多くの場合は困難、災難など目を向けざるを得ない事件)を自分に与えられた課題として受け止め、誰の責任にもしないで、真っ向から取り組むことが「ありのままの自分」を見ることにつながるのだと思います。

 

立脚点が確立したところで、頂いた字を分けると分かれてきます。以前無理やり字を分けようとしていた頃はなかなか分けられなかったのが、今は「字が分かれてくれる」ようになっているのです。無理はしなくていいのです。叡智の導きに素直に従い、感謝して受け止める、それが字分けのコツのひとつだと思います。思わず赤面してしまうような結果でも、頭をガンと殴られるような結果でも甘んじて受け止める。決して言い訳したり、目を背けたりしてはいけない。そんなことをしたら折角の天意を無にするという勿体ないことになるからです。

 

この天意を汲み取る為の作業としての字分けという手法を続けながら生活していると、周囲の状況、つまり社会現象や人間関係に見られる行き違い、そこから起きる様々な葛藤はおろか、一見偶発的に思えるような天変地異までもが「何かの意味を持って起きている」ということがだんだんに見えてくるようになります。周囲の状況をより明確明晰に見て取ることができると、悲憤慷慨、一喜一憂などの苦悩が少なくなってきます。起きたことをそのまま受け入れるという「受容」の精神が培われ、だんだんに心が平安になってくるのです。心の平安とは全ての人が実は生まれながらに持っている究極の望みなのではないでしょうか。物質的な豊かさを得た知人の多くがそれだけでは満足できない、何かが足りない、空しい、退屈だ、などと私に打ち明けてくれました。どうも人間はそのように「作られている」ように思えてなりません。

 

ここでもう一つ付け加えたいことがあります。それは「理解する」という現象です。周囲の状況を明確明晰に見て取るという際に起きている現象です。

 

何かが分かった時、「ピカリと閃いた」と言う人がよくいます。実際私の経験でも、その前には解からなかったことがある瞬間を境に解かったと感じるのです。

 

その一瞬に一体何が起こったのか?

 

ピカリと閃いた、と言う他ありません。「ある瞬間」とは時間の経過など全くない、絶対至高の速度の一瞬ではないでしょうか。それを境に「解っていない」が「解った」に変わるのです。昔は理解という言葉の読み音を「リカヒ」と書いていましたが、これを逆に読むと「ヒカリ」となります。文字通り光が射すのです。解らないという状態はちょうど、暗闇で手探りをしながら自分が置かれている状況を把握しようとしているのに似ています、この暗闇に一条の光が射したら何が起きるでしょう?

 

さて次に、光が射したことによって自分の置かれている状況が広範囲に渡って「見て取れる」と何が起きるでしょうか。

 

今まで自分は暗闇の中にいて、ほとんど何も解っていなかったのだという「気づき」が起きると思います。換言すれば、「己の無知を自覚できた」ということになります。この気づきが学びのスタートラインなのです。小田野先生が常々おっしゃっていたことですが、「自分ほどの愚か者はいない。全く持って愚鈍の極みなのだ」ということばです。私も「愚」という字を何回も分けました。その都度赤面するのですが、それを越えて学んできました。

 

人間は全知全能ではありません(当たり前ですが)。当然知らないことだらけです。何かを知らないからといって少しも恥ずかしいことではありません。至高の叡智という大自然あるいは創造の源の作業の完璧さ、細やかさは科学が進歩する程に、びっくり仰天の連続といっていいほど見事なものです。DNAを見てください。原子素粒子を見てください。星雲を見てください。それに比べたら人間の知恵など「ドングリの背比べみたいなものだ」、とそう思っていれば大丈夫。私に言わせれば、「人生なんて赤っ恥のかき通し」ですが、まあそこまで思わないまでも、「ほとんど何も知らない」と思っていれば正解。恥ずかしいなんて一時のことです。逃げなくていいのです。真っ向から無知と向き合って、胸躍らせながら、「まだ知らないこと」を学んでみてください。脳は学ぶために作られています。学び、発見し、理解した時に「スパークして」喜びに満たされるのです。子供の頃、胸を膨らませて、「僕それ知ってるもんね。この間習ったの」と頬を紅潮させて言っていたのを思い出してください。

 

さて、理解については、スパークのようなものと思ったところで、次に「納得」とは何かを考えてみましょう。私なりに考えてみたことですが、理解した事柄が自分の人生体験と照らし合わせて、「ああ、そうか。あの時の経験はこのことなのか。今ようやく解った」となった時に起きるように思います。自分の人生経験と何の関連性もない理論なら納得にはつながらないでしょう。多くの人にとって人生は多事多難なものです。「あの時これが解っていればあれほどの失敗はしなかっただろう」あるいは「あれほど苦しまなかったかもしれない」ということに気づいたら幸運です。

納得とは、「納め得る」ということなので、納まるのです。これを「(はら)に落ちる」と表現する人もいます。つまり知識として頭に入っているだけでなく、「血となり肉となって吸収できる」状態になったという意味だと思います。肉体を例にとって考えてみましょう。食べたものが消化されていない時は胃の中でゴロゴロしているわけです。消化されない限りは次々に食べることは出来ません。これを表して、

 

いっぱいのコップにもう水は入らない。従って知識はかえって邪魔だ。知識は要らないのだ

 

などと言います。これを言い訳にして「知識は要らない、従って勉強は要らない」と短絡的に考える人が大勢います。しかし知識がなくて人間社会で自立して生きることがどうして出来るでしょうか。料理の知識なくして、食事の支度がどうして出来るでしょうか。笑い話のようですが、本当にあったお話をしましょう。知り合いのある男性が離婚し、初めて洗濯をしようとしたのです。汚れた衣類を洗濯機に入れ、棚にあったほぼ一杯の洗剤の箱の中身を全部入れたのです。それからテレビを見ていたら目の端に何か白いものが見えたそうです。何と洗剤の泡が洗濯機からあふれ出て部屋に侵入してきたのです。部屋が泡で一杯になってくるのでドアを開けたら泡は庭に向かってあふれ出て行ったそうです。もう一人、若い女性が独り暮らしを始めご飯を炊くために米を洗おうとし、洗剤を入れたという話もあります。これらは知識がないと生活が出来ないという例です。

「知識は要らない」という見解は説明不足なのです。これは、「先入観や固定観念が邪魔して新しい考えを受け入れることができない」という意味なのです。知識が固定観念になってしまうのは、納得していないからです。この場合知識は「消化されずに胃の中でゴロゴロしている食べ物状態」なのです。しっかり自分の一部になってしまったものはもう胃の中にはないのですから、次々に新しいことが学べるのです。

 

生きるという行程は学びの行程なのです。最近学んだとても良い例をお話します。静岡でお茶を栽培している方から教えてもらいました。以下かいつまんで書きます。

 

お茶は通常古い木に挿し木をして栽培します。この人の父親もそこから始めたのですが、口に入れると害になる農薬を散布せずに栽培しようと始めたのです。汚染されて疲れた土壌を何年もかけて改良し、茶畑の周囲に植林をし、林のバリアの中に茶畑を配置しましたが、始めは虫に食われたり、病気になったりとなかなかうまくいかなかったそうです。そこで新しい元気な木を育てようと思いつき、種からお茶の木を育て始めました。そうして大きくなった木は無農薬、無化学肥料でも虫もつかず、病気にもならず、どんどん元気に成長し、良いお茶がとれるようになりました。

その人の結論は、挿し木には種から木になるまでの学びの行程がなかったために、環境の変化に対応する能力が足りないのだと。天鏡図は挿し木としては使えません。学びのための種なのです。それぞれの人は頂いた環境の中で、種から学びを始め、成長し、環境の変化にも臨機応変に対応して行ける智恵を培っていかなければならないという大自然の進化の法則があるのです。

 

では納得と吸収という学びの行程を助ける理解力はどのように培ったらいいのか。我田引水かもしれませんが、あえて言います、それが字分けなのです。他にも良い方法はいろいろあるかもしれません。他の方法の方が自分には向いている、あるいは楽しいと思う人はそれをして行かれることと思います。要は辛い作業なら自分向きではないかもしれないと受け入れることです。決して無理をしないでください。自分の理解力が足りないから、あるいは努力が足りないから辛くても我慢してやり抜こうなどと頑張っても長続きはしません。字分けは楽しみながら一生やっていく、あるいはもうやりたくない、退屈になった、と思うようになるまでやっていく種類の作業です。登山が好き、陶芸が好き、絵を描くのが好きなどと同じように自然に長くやっていけるのなら、この本は役に立つことでしょう。