字分けをしてみよう

上級編

 

感謝の感、感情の感

 

 感謝とは、「ありがとう」と言うことですが、字分けをしてみるとこの二文字にはもっと多くの意味が含まれていることが分かります。

 

 


 感という字を二つに分けると、咸と心になります。辞書の漢字源によれば咸という字の意味には「みんなあわせて」というものがあります。「みんなあわせて心」って何でしょう。少し長い説明になりますが、これは重要な点なので、あえて書きます。今までご紹介してきた字分けは一般的に分かりやすい書き方をしてきましたが、このへんでそろそろ上級編もご紹介していこうかと思い、これが第一弾となります。

 

 心とは形のないものです。あなたにも私にも心がありますね。心が無かったら、もしくは機能していなかったら、あなたは存在していないも同然と言えるでしょう。肉体はあっても、意識不明で、心が働いていなかったら、あなたは「自分が在る」という認識を持つことができるでしょうか。心は言い換えればあなたという存在の中心核のようなものです。この核には形が無いので、境界線は作れません。見方を変えれば、全部繋がっていて、不可分とも言えます。

海を想像してみてください。それから海水にハサミでもナイフでもいいから入れて、切ってみてください。切れますか。心を大海のようなものとイメージしてみると、不可分という意味がよく分かると思います。

 さて、この不可分の心というものが、人類全体の意識というようなものと思ってください。「集合意識」という便利な熟語があるので、それを使わせてもらいます。「みんなあわせて心」とは「人類の集合意識」と言い換えられませんか。そして、それが「感じる」ということだとは面白いですね。感の意味は、「心が動く」ということなので、誰かの心が動くと、人類の集合意識に影響を及ぼしていく、という繋がりが見えてきます。ちょうど、海に何かを投げ込むとそこにしばらく波紋が広がります。そんなイメージです。人の意識は常に何かを思い、考えるということをしています。無念無想など到底達成できない難しいことで、通常はのべつ何かを考えて生きています。その、思いあるいは考えというものが「心」の内容なのです。

 

 茲(ココ=此処)という、私たちが存在している「場」にれているものが心です。そしてそれは形あるものの存在する3次元という場でもあります。エネルギーを意味する「」という漢字の部首があります。点が4個並んでいる形です。点という字の占を取った残りの部分です。いろいろな字に使われている部首ですね。この4つの点の二つ目に「L」という形を加えると出現する形が、心です(字分け図を参照)。Lは命波では「開く」という意味に取っています。1次元である「線」を90度開くと、「面」が出現し、それを90度開くと「立体」が出現することから、そのように取っているのです。

この説明部分は図がないとイメージが難しいので、飛ばして読んでもかまいません。

 

 では次の説明に入ります。

 

 感はカンと読みます。この字には訓読みがありません。カンだけ検証しましょう。云(運ぶ)ことが可能とはどういうことでしょう。感、すなわち心の動きは運ぶことが可、言い換えれば伝わるものとも取れます。波紋も周囲に伝わっていくものです。心の動きは波紋のように周囲に伝わるもの、と取りました。カンには完全の完という字もあります。完全な状態の感なら悩み苦しみはないのですが、通常人間が感じているのは悩み苦しみの方でしょうね。大多数の人間は自分を他者と比較しては羨ましがったり、妬ましがったり、自分を卑下して落ち込んだりと、悩み苦しんでいます。「みんな合わせて一つの心」と分かれば、比較から開放され、完全に平安な感になれるのですが、なかなかそうはできません。

 

この感の上の部分の咸もカンと読みます。同じ音で共通の意味の部分があると取ってみましょう。他に、カムとも読めます。噛む、あるいは神(通常カミと読みますが、カムとも読みます)。神というものを噛み締めて味わうと何が出てくるかというと感謝です。生きるために必要なものを無償で与え続けてくださっている自然の恵みの何もかもがありがたく、感謝が溢れてきませんか。感謝という心の動きが波紋のように広がると、そこには和やかな場というものが出来てきます。戦争をして、互いを傷つけ合い、永い間恨み合うことで出来る殺伐たる怒りの場の対極である、和やかな場というものが出来るのです。和やかな場というのは居心地の良い場で、これは誰しもが察知できる能力を備えられて生まれてきていると思います。これに対し、殺伐たる場は居心地悪く、怖くて、早く逃げ出したいという欲求に駆られるようにも備えられています。人間だけではなく、生物は皆自己防衛ができるように、その場の雰囲気を察知できるようにプログラムされているのです。感情の役割のひとつは、生命維持に必要な自己防衛の誘導です。

咸は他にゲンとも読みます。源、現、言という字があてられます。創造の源、命のエネルギーの源の現れは言、すなわちコトバでもあると取りました。これが神でもあり、みんなあわせて一つ(咸)というものなのだとも取れました。

 

次は謝を検討してみましょう。謝と言う字は二つに分けると、言と射になります。言(コトバ)を射るとは何でしょう。射るという動詞は、弓に矢をつがえて的に向けて放すという際によく使われます。詞矢(字分け図参照)、つまり詞(コトバ)の矢を的に向かって射るとは、相手を見据えて、しっかりと届くように、コトバを放す(話す)というように取れました。何を主に話すというかというと、「ごめんなさい」と謝る、または、「ありがとう」と謝することです。明確な意図をもって、目的の相手に、しっかりと伝えることです。この二つを実行していれば、人間関係は非常に円滑になると思います。

 

英語にCONSCIOUSという単語がありますが、これは意識があるという意味です。つまり、心の働きのことです。これを何と、カンシャスと発音します。「感謝す」が心の働きだと音が教えてくれています。面白いですね。

 

 さて、感についていろいろと検討しました。それが情と一緒になると、感情という熟語ができます。先にも感情には少し触れましたが、ここで更に検討しましょう。

情という字は「ジョウ」と読みます。「みんな合わせて一つの心」という意識の場(バ)はこれまた「ジョウ」と読みます。そしてそれが情でもあるのです。情にもいろいろあります。悲しみ、怒り、恨み、愛、嫉妬などです。これらの感情の発生する源として私たちの心があります。生きているという実感は感情の動きに伴って味合わされているのではないでしょうか。何も感じないと思えるような無感動も全くの無感動ではなく、その底には、傷つき苦しむことを避けて麻痺した状態での、いわば凍った感情があるのです。麻痺が解ければやはり感情となって発露します。無感動な表情の人に優しい励ましの言葉や慰めの言葉をかけたことがありますか。堤防が決壊して洪水にでもなったように涙が溢れて、泣きだすのを何度も見ました。私たちの本質は感情であるとも言えると思います。そして、その私たちが生かされて存在している場も宇宙意識という感情の場なのです。

宇宙意識という感情はあらゆる感情を包含しているのですが、この中でも、個々の人が味わっている感情はそれぞれ異なります。中でも完全なる無償の愛という情は人間にはまだまだ到達の難しい情で、これは「神の愛」などとよばれ、人間の感情とは違うものというように区別されています。人間も時には無償の愛を持つことはできるかもしれませんが、これは一時的なもので、揺れ動きます。一瞬一瞬全くの隙もなく、しかも無限に続く無償の愛は人間には到達できません。感情のもっとも高い段階は完全なる愛なので、これを「完場」と小田野早秧は名づけています。損得の「勘定」が働いている限り「完情」は無理で、「感情」は起伏し続けていて、私たちを悩ませますが、これが実は人間として生まれてきて、肉体という不自由な入れ物に閉じ込められて生きるということの意義なのです。悩むこと、苦しむことが、人間として生まれてきた意義なのです。それによって学び、成長し、だんだんに和やかな人になっていくのが「命の道」という旅なのです。

 

2008/08/27