宇宙の真髄

光透波

 

第三回

 

日本語は宇宙の音だけでできている

 

  「光透波」とは、人間が使っている言葉の原因で、命そのものなのです。

    太始にコトバあり、
    コトバは神とともにあり、
    コトバは神なり

  この場合の言葉とは、日常私たちが使っている言葉ではなく、その言葉を可能に
  している力のことであり、「光透波」と書くのが適切であると考えます。

  「私」そして「私の思い」すら存在していない

 

 字分けをするときには、字に真正面から向き合い、真っ直ぐな心で割るということが大切です。  つまり、自分に「正直である」ということです。そして概念に固執しないことです。い ずれにしても字分けとは概念を壊すプロセスです。壊すというよりむしろ壊れるのですが。


「思」を二つに分けると、まずは「田」と「心」になります。田は電磁場を意味します。心とは此処(ココ)に展開して露(ロ)呈している意味、あるいは、「情」を意味します。情は感情だけでなく、情報も意味しています。 「電磁場の意味/情報」は電信で私たちの脳裡にインスピレーションとして毎日毎秒入ってきていますが、これに刺激を受けて、私たちは「考える」ということをします。人間は四六時中何かを考えています。それによって行動を促されて、生活しています。 大多数の人は、「思考」は自分の自由意志で行っていると信じ込んでいますが、思考は一体どこから来るのでしょう。何故ある瞬間、他の何ものでもない、ある特定のことを考える次第となったのでしょう。何者か、あるいは何かが送り込んできたかあるいは流れている膨大な情報の海のような「宇宙という場」からある特定の情報を「引き込んで」それを「考えて」いるという可能性を否定できますか。 「以心伝心」とは実は「意心伝心」で、意(情報)は電信で伝わってくる思いで、受けているのが私たちなのです。

 私たちという存在そのものは「思い」で出来ていますから、その思いに従うしかないのです。自由な思考と言いますが、実は入ってくる思いに従っていろいろに考えているだけなのです。元々の発想は「入ってくる」のです。先に思いがあって、私たちはそれについて考えるのです。ですから思考と言って、考思とは言いません。順序性というものも宇宙の仕組みでは決しておろそかにはされていません

 また私たちは宇宙からそしてこの地球から、一時的に肉体をお借りして、それを使わせていただいているだけです。ですから自分の意思で髪の毛一本作ることも爪を一ミリ伸ばすこともできません。作ることは出来ませんが、壊すことだけはできます。そして実際に壊しています。
 先ほど「思い」も自分のものではないと言いましたが、これはどういうことでしょうか。ショックかもしれませんが、今まで私たちがそう思い込んでいた、「思いの主体は私である」というものも概念なのです。「私」という主体というものすら本当は存在していないのです。

 ここにあるのは私「キ・ク・チ・シ・ズ・ル」という音だけ。その音に思いが合わさり、「私という仮想」あるいは「私という幻影」をつくっているのです。この場合の「仮想あるいは幻影」を科学的に言うと、「音という光の」干渉波となるかと思います。
 菊池静流という存在自体は概念でしかありません。キ・ク・チ・シ・ズ・ルという音に生まれや性別、人種、そして過去の体験の記憶、他者の評価や人物像などの概念がくっついて、エネルギーとしての場ができ、「自分」を構成しています。
 しかし、自分の本質である魂、というか、肉体消滅後にも残存する強い執着が核となって残るエネルギーがあります。神秘家は「エレメンタル」とも呼んでいます。私の師匠であるインドの聖者カルキ・バガバンも魂とは呼ばず、「香り(ワサナ)のようなもの」と言っています。
 命波では仮想に対し、実存、つまり実体というものは光透波という光であると言っています。光は「コ」と発音されます。そして同じ意味の文字には「香」があります(天鏡図参照)。

 では輪廻転生とはいったい何がしているのか、ということになります。菊池静流という存在は肉体消滅後、残像のように人々の記憶の中などに残り、後は執着が次の生命への、いうなれば事務引継ぎをし、別の名前とそれにともなう属性を持って生まれてくるのです。そしてこの執着が全て抜け落ちた時、その人は「解脱した」と言います。そして光となって天の一部になるのだそうです。小田野先生はこれを「天網回帰」と呼んでおられました。

「ある」という概念を一掃され新たな価値観を構築する

「あなたがそこにあると思って見ているものは、ただあなたがそう思っているだけ・・」と、師匠の 小田野先生は言われていました。
「在る」もしくは「見える」と思っていたものは、じつはすべて脳がそのように認識しているだけであり、実際に「在る」とは限らないということです。
 夜空の星を見上げる時、その星が太陽系の外側に、今自分が見ている形で実在していると私たちは思っています。しかしそれが果たして、対湯系の星と同じような存在の次元の延長線上に在るのか、無いのかは判りません。
 私たちは、目と言う道具を使って見た物質を電気的信号として脳の形状認識分野へ送り、形として捉えるようにセットアップされています。しかし物質とは単に素粒子のような極微の光子が猛スピードで回転することで成立している「場」の集積です。見方さえ変えれば、形も何も無い「エネルギーの場」なのです。
 今までの「在る」という概念を覆された私は、小田野先生に師事している初期のころ、とても悩みました。ではいったい何をよすがとして生きていけばいいのだろうかと。先生から「本当は何も無いのですよ」と言われたら、誰だって困りますよね。
 また、先生はこうもおっしゃっていました「でも悩みだけはありますよ」と(笑い)。

宇宙の音は「ン、ア、イ、ウ、エ、オ」

 小田野先生は「宇宙の音は76種あります」とおっしゃっていました。
 「ン」は閉音(へいおん)と言い、口を閉じたままで発音できる唯一の音です。そして口を開けて最初に出てくる音が母音で、「ア、イ、ウ、エ、オ」と5つあります。それに子音がついて「カ、サ、タ、ナ・・・」行の各音になります。これらを清音といい、5〇あります。これに濁音と半濁音を足すと75、閉音を加えて76音です。子音はどれも伸ばして発音すると母音になってしまいます。
 この76音の一音ずつをそのまま音節として発音している言語は日本語だけなのです。
 どういうことかと言いますと、日本語でフイルムは4音節です。そして各音節は伸ばせば母音になり、これを「開音節」と言います。英語ではfilmという単語は一音節です。伸ばしても母音にならない、子音の音節です。ばらせば4つになる音を団子のようにくっつけて発音していると小田野先生は表現しています。
 ある特定の言語において意味が区別される最小の音声単位を「音素」といいますが、日本語の音素の数が25個(母音5、子音2〇)であるのに対し、英語では44個もあるのです。また、日本語は音素が少ないだけでなく、言葉の最小単位となる音節数も全部で百余り(注。キャ、ジャ、ピャ等の拗音を含む数。単音は76)と、世界的に見てもパターンの少ない言語に分類されています。英語は1つの母音に複数の子音がつくことで、音節数が3千以上になる複雑な言語です。音の複雑性はフランス語やドイツ語などの印欧語族の言語全部に当てはまります。

 日本語は世界の主要言語に比べ、同じ語族を持たないユニークな言語です。

 では何故、日本語はそういった不思議な成り立ちなのでしょうか。

 小田野先生の理論によれば、世界で最初にできた言語だからです。音素も音節数も少ない、言ってみれば単純な音だけでできた言語です。赤ん坊が最初に発音できるような音で出来た言語だからこそ、初めに出来た言語ではないかと言うのです。

宇宙の音にはひとつひとつ意味がある

 なぜ日本語だけが開音節のみを使う言語として他に類を見ないものなのかに着目した小田野先生は、音が1音ずつ区切れるという特徴から、もし音が連なることで出来上がった単語の意味ではなく、音そのものに意味があるとしたら、おそらく1音ずつ区切れる言語の中に意味が隠されているであろうと推理しました。
 小田野先生が啓示によって、「天鏡図」をお作りになったとき、その76音のそれぞれに代表的な漢字をあてました。ただし全部の答えを頂いたのではないのです。
 内容は先生が、文字通り不眠不休に近い状態で、4年4ヶ月以上をかけて、音に対して最も重要な文字を当てはめていかれたものなのです。ある文字をあてると、体のどこかが痛くなったり、熱がでたり、尿が出なくなったり、と体を通して天意が伝えられ、ようやく最初の清音のみの表ができました。
 天鏡図を見ると分かるように、漢字の他に数字が入っています。漢字を幾何的な形状として捉えると、数学的に解析することができます。私は数学が苦手なので、なかなかその側面から捉えることはできませんが、数学者にとっては面白いかもしれません。
 先生は数学が苦手な私に捉えられる形での命波理論を教えてくださいました。それも可能ということです。ただし、苦手でも文字の形を幾何的に捉えることだけは避けて通れませんでした。
 漢字とカタカナの形状は直線と、点とで構成されています。この二つの要素で「電磁場」としての宇宙の成り立ちを最も単純な形で表現することは可能です。
 それは磁性を意味する縦の線「―」と電性を意味する横線「−」、そして二つが交差して出来る「+」という形です。命波ではこれが、電磁場を表す形と捉えています。それにすべての形を構成する最小の要素である点「・」が加わり、森羅万象が構成されているというのが最も単純な宇宙の構図です。
 このエネルギーの場を文字の形が表しているということに着目したのみならず、その文字に付いている読み音もまた数として解析可能なものであり、そこに「数」という共通項があることを小田野先性は発見されたのです。
 今では多くの人が気づき始めていると思いますが、音は振動であり、その振動数によって音は様々な様相を展開しているということです。

宇宙の意味を理解することはこの世の謎を解くこと

  何故字分けをするのですか、といろいろな人に訊かれます。
  その質問の裏にはその「意味を知りたいと思っている私がいる」ということになります。
  この「意味」というものですが、通常は意味を理解する「主体」は私であると考えていると思います。「意味がある」と思っている私がいなければ意味などないではないか、と思いがちですが、それが逆なのです。
  実に驚くべきことに、小田野先生は「意味が宇宙」であり、「唯一の実在」であると言っているのです。「人が主体で意味が客体」という関係ではないというのです。


  これはいったいどういうことかというのが古今東西の哲学の命題とも関係しています。「存在」あるいは「実存」とは何かという命題です。これを明快に解き明かしたのが、宇宙の真髄は音であり、音が意味であるという命波理論です。
 字を分ければこの謎が明らかになるのです。意味の意という文字は「音」と「心」という2文字を合わせて出来ています。「心」という文字は」意味」という意味です。音が意味ということです。そして音という振動が宇宙の構成要素です。これは別に命波ではなくとも一般に知られつつある現代の人類の認識です。
 「始めに言(コトバ)ありき」とは換言すれば、「初めに意味ありき」なのです。コトバが先にあり、森羅万象はそのコトバによって創られたのです。多くの神話にそのことが、言い方こそ違え、宇宙創成のプロセスとして書かれています。
 しかし神話を読むだけではそのことが解からなかったのは事実です。これを現代の量子物理学や、古代からの叡智の所産である幾何学、数を意味ある信号として扱った数秘学、音を神聖な存在として認識していたヒンズーの教えや、言霊の教えなども網羅して、底流にある共通項を見つけたのが、小田野早秧という人なのです。