悟(さとり)

悟(さとり)


 ずばり、(リッシンベン 立心編)に吾です。吾は辞書的には私、自分、己という意味。訓読みでワレ、音読みではアです。
 の付いた文字には通常心が働いている状態を表すもの多いのです。寝ている心ではなくて、立っている心ですから、つまり、活動している心です。併せて活動している私の心となります。それが悟りだというのです。どうしてそうなのでしょう?
 さて、吾はワレと読むのですから、その通り素直に割ってみましょう。

五に口となります。五つの口と言えばすぐに思い浮かぶのが、仏教で言うところの五入です。五つの入り口という意味で、具体的には次の五つを指します。
目、耳、鼻、舌、肌です。これらの器官を使って感じるから五感というわけですが、ではどうして五感が活動していると悟っていると書くのでしょうか。
 インドの賢者バガヴァンは言います。

    悟りの状態には様々な局面がありますが、その中でも初めにあげるべき点は五感の分離体験です。普通あなたが例えば木を見ているとき、あなたは実際には木を体験してはいません。そのかわりに
「あれはマンゴーの木だ。大きいな。樹齢は古いのだろう。赤いマンゴーの実がなる種類だな。私の好物だ」というように様々なコメントが脳裏に浮かんでは消えているだけで、マンゴーの木そのものを体験しているわけではないのです。
同様に、何かを食べている時、実際には食べているものそのものを味わって体験しているのではなく、仕事や次にするべき他の何かのことを考えながら、あるいは食べ物について
「旨くないな。塩が少ないようだ。まったく女房はいつになっても俺の好みを覚えなくて困る。
それはそうと昨日レストランで食べた魚は旨かったな」などなどのコメントをしながら食べています。 実際に口の中にあるものを完全に味わってはいなのです。

 この例のように、五感は様々なコメントに邪魔されて、ごく一部しか体験されていないのだそうです。ところが、悟りを開いた人はその瞬間その瞬間にしていることのみを純粋に体験できるのだそうです。
コメントなしの純粋な体験とコメント付きの半端な体験とではどこが違うのかというと、喜びが違うのだそうです。単なる喜びというよりも胸が躍るようなワクワクするような、あるいはウットリとするような比類なき喜びがあるかないかの違いが出てくるのだそうです。
 五入を純粋にコメントぬきでフルに使いきって、瞬間瞬間に純粋体験できたら至福がある。それが、悟りということになるのです。字を分けたそのままの意味ということになります。

2005/08/09