光透波はワンネス

光透波はワンネス


 以前小田野先生にこう言われたことがあります。

「菊池静流っていうのは光透波なのよ」

 言われた時私は大変な誤りを犯しました。私の名前が菊池静流なので、私が光透波なのだと思ってしまったのです。その後もずっとその誤りに気づかず、終に2004年の12月、インドでやっと気づきました。

菊池静流が光透波なのです。
私は光透波ではないのです。
私なんて無いのです。
私は菊池静流ではないのです。

 分かりますか、この違い?
 光の透明なバイブレーションのどこが私だと言うのでしょう?
 絶対止速の透明の光は全一にして、無限です。無限なのですから個人と個人の境界線など無いのです。個人など無いというのに、どこに「私」なんているのでしょう。

 「名前の無い方」と呼ばれる人がいます。以前その方のお弟子さんから講義を受けたことがあります。
 その師匠の修練に、「私」という言葉を使わずに一週間過ごすというものがあるそうです。
 「私」と言う言葉を使えないことで人は初めて「自分」というものは単なる「コンセプト」にしか過ぎないということが分かるようになると言います。「自分」というものが「有る」と思っている主体が「有る」と錯覚しているだけで、実はそんなものは「無い」のだと気づくのが「悟り」なのです。
 ちょっと難しいかもしれません。
 何しろ「無明」と「覚醒=悟り」の違いがここにあるからです。

 さて、悟りの境地に達したいと願う求道者と呼ばれる人たちの多くが、達成しないままに死んでいきました。歴史上、悟りを開いたとして知られている人がいかに少数であるかを見れば分かると思います。悟ったと言われている人たち、釈迦、イエス・キリスト、マホメット、弘法大師、法然聖人、親鸞、達磨大師、クリシュナ・ムルティー、ラマナ・マハリシなど、夫々が悟った後の考え方を教えとして遺していかれましたが、残念ながら、先駆者に次ぐ人たちの数は非常に少なかったと言わざるを得ません。

 何故でしょう?

 何故なら悟りは、喩えて言えば、開拓者が自力で畑を切り拓いていくようにはいかないからです。自力でその境地に達することは出来ないということを私たちは知らなかったからです。何故自力では出来ないかというと、「自分」が悟りを開こうとする「主体」になっているからです。「自分なんてものは無い」のだと気づくのが悟りなのに、それを「気づく主体」があっては当然出来ません。
 先に挙げた覚者たちも悟りの境地に自力で達したのではなく、天のプレゼントとして与えられたのです。
 「自分の考えなんていうものは無いのですよ」と言う小田野先生の教えも、聞いた当時は全く何のことか分かりませんでした。
 ともかく、「宇宙における唯一無二の実在は光透波だけ」と言う意味は、その他のあらゆる物象は全て「仮想」だということなのです。
 「無」というものが、唯一の「実在」で、有るものは全て「仮想」なのです。そして私たち人類は、この仮想世界に住む「夢見る者」なのです。ちょうど映画の「マトリックス」の登場人物のように。

光透波の仲間へ追加情報

 宇宙を創った創造の源はサンスクリット語で「ブラハマー」と言います。そのブラハマーには二つの側面があり、バガバンとアンマ、あるいはイダーとピンガラと呼ばれています、バガバン/ピンガラが陽、アンマ/イダーが陰のエネルギーです。
 命波で言う「天の実親」は「ブラハマー」というわけですが、インドではこの存在はあまり祭られていないそうです。具体的なご利益を与えてくれないからだそうです。
 命のエネルギーと悟りしかくれないんじゃしょうがないという訳。


2005/01/09