腰越

腰越


 私は腰越という所に住んでいます。腰という字は月(ニクヅキ)に要と書きます。ニクヅキという部首は肉体に関係した文字を作っています。肌、肝、肘、股、肢というように肉体の部分ですね。肉体の様々な部分の中でも一番重要な(要)場所が腰だと字が示しているのです。

 さて、私は腰が弱いのです。腰痛が持病です。それを以前小田野先生に申し上げたことがあります。その時に先生は、「あなたは腰越に住んでいるのですよ」と言われました。その意味をその時にははっきとは理解していなかったのです。 肉体を持っているということを考えてみましょう。その前に体がなかったらどうなるかを考えてみましょう。


もしも体がなかったら、

 お腹が空かない。お腹が空かなければお金は要らない。けがもしないし、病気もしない。治療しなければお金は要らない。泣くことも笑うこともできない。娯楽も気晴らしも要らなければお金は要らない。雨露を凌ぐ家が要らない。家が要らなければお金は要らない。家もお金も要らなければ豊かに所有していて誰かに見せびらかすものも始めから無い。競争も要らない。羨ましく思う人もない。妬みも恨みも無い。

「肉体は執着の苗床」と言いますが、体がなければ執着することもないわけです。すると、体があるということで執着を体験するということになります。では執着の体験が何故必要なのでしょう。それは体験しなければ超越できないというメカニズムがあるからなのです。「胸落ち」という言葉があります。理論的には執着さえ無ければ心は平穏無事で体も元気でいられると思っていても実際にはそれで執着が超越できるわけではないのです。大多数の人は何かに捕われています。


美味しいものを毎日食べたい。

美人と結婚したい。

美しい家に住みたい。

好きなだけ好きなところを旅行したい。

人が羨むような素晴らしい頭脳を持ちたい。

オリンピックで金メダルをとりたい。

ノーベル賞が欲しい。

ベストセラー作家になりたい。

多くの人に崇拝されたい。

 以上のような執着のすべてを超越するのはすぐにできることではないと思います。そのために、欲求が満たされないという失望を幾度も幾度も経験し、挫折感や劣等感が失望感や絶望感を味わいます。この望ましくない感情を味わうということが大切なことなのです。望ましくないから味わいたくないと思うのです。味わわなくてすむ為にあがくのです。そして最後に、欲求を持たなければそういう思いをしなくてもすむということに気づくのです。

 腰越に住むということは腰を越えよ、つまり肉体に付き物の(月もののってシャレもできますね)執着を超越しなさいという意味だと先生はおっしゃったのです。

 越えるという字は 走ると戉、これはマサカリと読みますが、刃物の一種です。「マサカリ担いだ金太郎さん」という童謡がありますね。あの金太郎さんの持っていた刃物です。ではマサカリを持って走っているってどういうことでしょう。何かを切る為に行動するということです。何を切るかというと肉体の生み出した執着をです。


2004/05/03