文字という鏡


 このところ字離れ(?)していました。字を分けるのも書くのも読むのもさっぱり気がのらなくて。それで何故そうなのかを考えてみました。

 まず、気持ちがいろいろな方向へ散らばって揺れ動いていて集中力がなくなっていました。そしてそういう自分を見たくなかったのです。

 字を分けるという行為はその時々の自分の心の在り方を客観的に見る手法なのです。気が乱れていれば字は頑として分かれてくれません。無理に割ってもそこに何のインスピレーションも湧いてこないので無駄なのです。まず心を鎮めて虚心坦懐に字に向かうことが肝要です。そうして自然に分かれて来るのを待つのです。同じ字を何回割ってもその都度分かれて展開していく図は違います。分けている人の意識状態は時々刻々と変化していて、同じ状態には決して戻ることがないからだと思います。人間は生きている途上で体験し、考え、進歩なり退歩なりしていきつつ変化しているのです。その時々の自己というものを字は鏡のように映し出して見せてくれます。従って、自分に向き合いたくない時には字分けをする気にならないのです。

 さて、机に向かい白い紙を出し、鉛筆を持ち、心を鎮めて待ちました。

「乱」と出ました。

 これを分けて見ましょう。まず、舌とL(アルファベットのエルの形)と取りました。命波でLという形は一次元の線が90度開いて二次元の面を作る動きを意味していると取ります。ですからLは開くという機能を表す文字と解釈するのです。

  (線 一次元)が90°開くと  面を作ります。

 さて、舌が開くとは具体的に何を意味するのでしょう。口が開けば出てくるのは言葉ですが、舌は直接的には開きません。舌の機能が展開するという状態なら幾つか考えられます。味わう、口の中の物を選別する、それから言葉を操る(発音する)などがあります。

 選り分け(分類し判断する)、味わう(吟味する)という行為は人生体験にそのままあてはめられます。そして舌があることで思いを人に伝える言葉が発声できるのです。歯はなくても何とか発音できますが、舌がなかったら話は出来ません。積極的に人に何かを伝え(私の場合は命波の教えを伝えること)、その伝えた内容を自分の人生体験そのものにも反映していくという責務を怠っていたこの数週間でした。「乱」の一文字を分けて、己の気の乱れから生じる優柔不断と怠慢を文字という鏡に映し、反省をした次第です。
 それにしても人生は毎日が自己の怠慢との戦いですねえ。

2003/05/11