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続権力と真力

命詞(メシ)をいただく

 

先月権力と真力の話をした、それに続けてこの一文を書いている。

 

ここでは真力の本質とは何かを命波的に考察してみようと思う

 

永遠に消耗しない、従って形のない力の本質を、宇宙を創造した智慧というエネルギーであり、それ

のみが真の実在であると小田野早秧は言っている。実在であるように見え、吾々が「有る」と思ってい

る他の森羅万象は全て生まれては滅び、消え去っていく、仮の存在であるとも言っている。また「有る

ように見えるもの」は実はそう見えるように吾々の脳が造られているだけで、実際どういう形状で「有

る」のかは分からないとも。これを初めて聞いた時はそれこそ「鳩が豆鉄砲を喰らった」ような気持ち

で、ただきょとんとしていたのを覚えている。それはさておき、この真の実在のエネルギーが至高の速

度を持つ光の波で、光透波と書くと、コトハと発音できることから、光透波と言葉の関係性に気づいた

のも小田野早秧である。

その光透波というコトバが整然たる秩序を持って働いているその仕組みを解き明かす鍵も小田野早

秧を通して人類はプレゼントされている。

 

その光透波こそが真力なのだ。

 

権力と異なり、決して消えない上、恐れも心配も疑いも生まない力、心を豊かで幸せにする力なので

ある。これが欲しくない人がいるだろうか。

人間は煎じ詰めれば自己中心的な生き物で、何か素晴らしいものがあるとそれを誰より先に、より多

く欲しいと思うのが実状だ。ではどうやって真力をいただけるのか。これが命波を生きる、実践するこ

とによって少しずつ身に付いてくる力なのである。命波を生きる、実践するとは、言葉を使って光透波

を汚す行為を極力しないということである。

嘘をつかない、ごまかさない、言ったことは実行する、約束を守る、高ぶらない、油断しないこと。

そして、それぞれが生活の為に行っていることをより精密に、確実に、念入りに、できればバランスよ

く美しい形で仕上げようと工夫して生きること。工夫という頭の働きがその人の意識をより緻密に精妙

にしていくものなので、重要なポイントだと分かってもらいたいと思う。これより他には手に入れる方

法はないのである。どこを探しても売ってはいないし、誰もくれないからだ。

 

この言葉を使って生活するという人間独自の、いや、人間のみが頂いた才能は人間性というものを複

雑多岐な存在たらしめてもいる。およそ人間ほど個体差の激しい動物はいない。ライオンらしい、ウサ

ギらしい、蛇らしい等々の性分はそれほど複雑多岐には渡っていないことは観察力のある読者もご存知

の通りである。この複雑にして難解な人間の心理や性分は一体何のため、何の役割を果たしているのだ

ろうか。

私が思うに、ひとつには、他のあらゆる動物の性分の集約だということである。猫的性格の人、犬的

性格の人、猿的等々、見ていると実に面白い。ある意味で、人間は他の全動物の代表なのである。この

代表が先頭を切って走っている後を、主体性はあまり持たずに環境に変化をもたらすこともせずに、他

の動物が続いて歩いてくるという図を想像してみてもらいたい。先頭を切って走っていく者が、崖から

転落したらどうなるか。後に続く者たちも続々と転落してしまう。

人間は他の動物、ひいてはあらゆる生物の生殺与奪の力を持っているのだ。それだけに責任は重い。

この人間が何故これほどまでに住処である地球を汚し、他生物の生息圏を奪い取ってしまったのか。

嘘で固めた権力構造の中で、人間もまた苦しみあがきながら生きている。権力の頂点にある者も、そ

の地位を奪われないようにと疑心暗鬼、心の休まる暇もなくその力の維持に汲々としている故に決して

安心立命などという心境ではないであろう。全く理不尽であり、愚かである。これは一体何が一番の原

因なのだろう。

まず、何でそんなに権力が欲しいのだろう。何故他者を支配したがるのだろう。名声名誉が欲しいの

だろう。

 それは、心が貧しいからなのだ。不幸だからなのだ。構っても認めてももらえなくて、寂しく、そし

て寂しさの挙句猛烈に腹がたって、怒りまくっているからなのだ。それ故、名誉名声支配力が欲しくな

ったのだ。

 原因が分かったら、次はどうしたらいいのか。これが課題となる。ここまで来てしまった嘘の社会構

造の中で、嘘をつきながら生きて来なければならなかったことが、苦しみの根なのだ。

 

  嘘つきの住めるところは(真空という真の実体である)宇宙のどこにもない。
何故ならば真空宇宙は真実のみで出来ているから。

―小田野早秧― 

 

永遠の生命という真正宇宙の一員、一部となるには、「真の詞を口にしていなければならない」のだ。

口という器官は一つしかない。人間生活に必要なものを見る眼、音や言葉を聞く耳、呼吸する鼻の穴は

みな二つあるのに、肉体の栄養補給に必要な食物を摂取する口だけ一つしかない。言葉を話すためと食

物を摂取するための器官に同じものを使わされているのである。換言すれば話している時に食べること

が出来ないように創られているのである。

 

飯という字は食物の代名詞にも使われている。この字を分けると「食+反」となる。食べることでは

ないという意味になる。では食物を摂らなくて何を摂ればいいのだろうか。小田野早秧は、「命詞」だ

と言っている。この命詞は永遠の生命そのものである詞という真実なので、当然嘘は含まれない。嘘は

永遠の生命ではないのである。簡単に言えば、「嘘は栄養にならない」のだ。従って嘘をついていると

命のエネルギー不足に苦しむことになる。代わりに美食飽食を求めることになる。これが地球上の他の

動植物を収奪することにつながっていく。

テキスト ボックス: 飯
メシ
命詞
 

 

 

 


さて、飯の代わりに命詞をいただいて生命維持をしようと思われた人へ、答えは簡単で単純だと思う

かもしれないが、なかなか「不食の人」にはなれないのではないかと思う。命詞をいただくにはそれに

対する消化力が必要なのである。だから、今日ただいま地球の元素で出来た食物の摂取をやめても肉体

の生命維持まで命詞でまかなっていただけるかどうかは分からない。まず、少し実験してみて、それか

らどうしようか思案することをお勧めしたい。私の経験では、地道に培っていく過程が必要だと思う

 

2009/09/02

菊池 静流