一足す二

 命波の仲間から「一足す二=?」という質問が来ました。それから考えたものを文にしてみました。

 まず、単純には足して三ですね。

 下の字分けの図にあるように、「差と叉と左を云ぶ」と字を当てました。三つの文字の内、差だけは相対的レベルの状態を表しています。絶対レベルには差というものはないからです

 さて、差を云んでいるという意味ですが、これをクリアーするのがいかに大変なことかを今つくづく実感しつつ悟り(差取り)の道を歩んでいるところです。

 実際に差が取れて、母なる網の交差する(叉)絶対電磁場という左(直理)を云ぶまでには、暗い暗い魂の闇夜(ダークナイト・オブ・ザ・ソウル)を潜り抜けるという苦悩を体験しなければなりません。苦悩が喜びになるにはまだまだ「自分」があり過ぎます。抜けていません。産(サン)の苦しみです。

 生命の能き(働き)を立証するには自我の見地から一旦離れ、自分を外側から見なければなりません。

 ある覚者が、悟りというのは「自分の後頭部を見る」という状態を体験することだと言いました。
つい最近半田広宣さんのヌース理論を学んでいた佐藤真平さんという人からヌース理論の究極を一言で言えば、 「悟りとは次元観察子Ψ(プサイ)3なんだよね。つまり自分の後姿が見えるってことさ」と教えられました。

 半田さんによれば意識が対象を観察している状態を段階的に言えばΨ12まであるのに、Ψ3とはね。でも3が始まりで、その後12まで研鑽を続けていくのだなと思いました。


 というのは、つい最近カルキ・センターの研修会で大矢浩史さんから、悟りの第一歩である、感覚の解放(マインド/自我からの解放)ができ、至福を味わったら、それが終着駅ではなく、そこからが始まりで、その後は 洞察を深めていくだけです、と聞いたことも思い合わされたからです。

 上図の字分けで、一を回転させて縦にして、|に二を合せると、 コにもなりますね。九の光ですね。

 ところで、囲(カコミ/加光実)の中には九個の場があります。「井」をカコミに入れると更なる囲みができ、九が入っている。全部をくくっているのが十(透、答)という加光実なのでしょうか。

 九キュウは究極の究キュウと同じ音ですが、ずっと苦もク(九)なので、人生でキュウキュウいう目に会わされては悩んでいました。「窮(キュウ)すれば通ず」と言いますが、なかなか実際には崖っぷちに追いやられても自我からは抜けられません。究極は、自分とは宇宙のハ(波/エネルギー)の九(光)の場にある点にしかすぎないと分かれば楽になるのでしょう。喩えて言えば、崖っぷちから手放しで飛び降りられるのでしょうね。そうすると、底(祖光)まで落ちて 「なんだ、全部光の中じゃないか」となるのでしょう。
次には「囲」を字分けして見ようと思います。

2005/06/09

静流