後生(ごせい)

 ある賢い人に賢い人とはどういう人なのかと尋ねたことがあります。

 その人は間髪をいれずに、「後生を知る人」と答えました。その人が「ごせ」と発音したので、何のことか分からず、重ねて尋ねると、こういう説明でした。

 人が何かの行為をすると、それによって影響を受ける者があり、その影響を受けた者がさらに他に影響を与えていくというように、一つの行為の影響は次々に波及していくものだ。水に小石を投げ込んだら波紋が広がっていくのに似ている。

 例えばある女性に依頼心の強い弟がいた。その弟は子供の頃から自分がしたことの結果で不都合が生じると親や兄弟に嘘をついて責任逃れをしていた。その姉は親の信頼の厚い人で周囲の人たちからも愛され、尊敬されていた。いつも人々に愛され注目を浴びていた姉を羨ましがって自分に注意を向けようと何かしては失敗する弟を気の毒に思っていた姉は嘘つきの弟の起こした事件の尻拭いを黙ってしていた。

 大人になってからもその弟は一生の間に多くの人を騙し、中には首吊り自殺する者まであった。女性も大勢騙したので父親のない子供も何人も出来た。子供の中には、ぐれて罪を犯し刑務所に入った者や、麻薬中毒になった者もいた。その女性は後生を知らなかったと言わねばなるまい。

 親鸞聖人の教えを大変尊重していたその賢い女性はさらに続けて上人の言葉を教えてくれました。正確には覚えていませんが、大体こんな言葉でした。

 「目に一丁字も無い(註。字が読めないこと)無学の老婆でも後生を知る者を賢者と言う。たとえ百万巻の経文を読んで覚えている者といえども後生を知らぬ者を愚者と言う」

  私の師小田野早秧は後生を知る人でした。自分の為したことの結果が最終的に地球の汚染につながることは極力しない。言ったことの結果が一時的に誰かを傷つけても、最終的にその人の一生が悔いの少ないものになると思えばあえて言う。どちらか二つに一つを選ばなければならない分かれ道に来て後生が明確に見えない場合は、自分にとって損な方を選ぶ。つまり一個人なら損する方を選ぶ。同じように一民族、一国にとって損でも究極的に世界平和につながる方を選択する。たとえその道が茨の道であっても、誰一人、たとえ家族でさえ理解してくれなくても妥協はしない。これを「損して徳とれ」と言います。

 まあ、そこまで厳しくしなくても、と小田野先生の例を見る度に出るのはため息ばかりで過ごしてきたこの十年でしたが、個人レベルでは正しい、あるいは優しい行為でも、より広いレベルではそうではないことが多いということに最近度々気づかされました。これを「独り善がり」と言います。

 そろそろ腰を据えて、人生で巡りあう好機を得た先輩の女性達の生き方を少し、少しですが、踏襲していこうかなと思う今日この頃です。

 もうすぐ六十歳になる菊池静流より

2005/05/07