恩師二人

 先日電車の中でお年寄り二人が、「良い医者に出会うのも寿命のうち」と話しているのを聞いて、すぐに思ったことは「良い師に出会うのが人の運」というものでした。

 振り返れば実に多くの素晴らしい師にめぐり逢えた人生でした。小田野早秧先生を始め、ある意味では母親の太母さんも良い師でした。他にも多くの師がありましたが中でも最近亡くなられたお二人の素晴らしい師があり、ここにご紹介したく思います。

 昨年11月22日に亡くなられた戸井田行世先生は桜美林学園高等部の国語の教師でした。それまでは特に考えたこともなかった日本語の美しさというものを初めて認識させてくださった方です。読本のお声も耳に快いもので、聴いているだけでうっとりする程でした。どういう声かといいますと、良くコントロールされた声でした。元来深みのあるバリトンの美声であった上にコントロールされていたのですからうっとりするのも当然だったわけです。そのような声で和歌を読まれたり、漢詩を(原語で)読まれたり、はたまたお好きだった高村光太郎の詩を読んだりしてくださいました。おかげで日本語が好きになり、勉強が楽しくなりました。文章で自分の気持ちを表現することの楽しさも覚えました。

 また文を書くと自分のその時々の気持ちが後で確認できます。幼かった自分、おっちょこちょいで早とちりの自分、よく調べもしないでこうと断定してしまう思い込みの強い自分などを客観的に見ることができ、反省の機会を得ることができます。書いている時には気づかなかった下手な表現も修正することができ、だんだんに無駄な表現をしなくなり、それにつれて思考も明確になってきます。日本語の美を認識することで積極的になった、言葉を使って自己表現するということの契機となったのが戸井田先生の授業だったのです。

 それはさておき、授業ばかりが先生との触れ合いではありませんでした。いくつかある思い出のなかで特に忘れられないお話をひとつ。

 朝遅刻したついでに(?)午前の授業をサボって校舎の裏手にある丘にのぼり、青草の上に寝転んで青空を見上げているうちにウトウトしてしまいました。

 「こんな所にいたか」という声で目を開けると戸井田先生でした。「へへ」と照れ笑いすると、少しも怒っている様子はなく、「こんな良い天気の日に授業より草っ原で昼寝の方が利口だな」とニヤニヤして言います。それからウンと伸びをして、「まあ、それでもサボるのはほどほどにしときなさい」と言いながら丘を降りて行かれました。その後丘で昼寝をしたことはありませんし、授業をサボったこともありません。多分叱られなかったせいでしょう。

 これに関連して後に気づいたことがあります。アメリカの大学時代のことです。田舎の小さな大学で、一クラスの生徒数は多くても30人程度でした。教師にもよりましたが、試験の際に監督官がいないことがしばしばありました。オナーシステムという制度で、学生の良識を信じて試験中に監督をしないのです。カンニングしたければできるわけです。でも私の取ったクラスでそんなことをする学生は一人もいませんでした。また仮にカンニングで試験の成績だけ良くてもその学生の平常の学業を見ていれば実力は注意深い教師にならお見通しでしょう。また社会に出ても実力以上の背伸びをして生きるという姿勢が身についてしまったら一生涯辛いと思います。

 生徒の良識を信じている教師に応えるには、真に学ぶという学生の本分を尽くすだけです。戸井田先生にそれを教えられていたので、オナーシステムの理念が理解できたのです。そして残りの生涯、サボって勉強もせず、それをごまかす為にカンニングをするという生き方をしないですみました。

 もう一人は今月の1月12日に亡くなられたこれもやはり桜美林学園の大野一男先生です。中学一年の時からの英語教師でした。昭和33年の4月、木造校舎の木の匂いと窓外に桜の花吹雪が舞う教室にさっそうと入って来られた、カッコいい先生でした。背が高く姿勢が良くて、服装も趣味が良く、日本人離れした雰囲気を持った人でした。マナーが良いということがどういうものか実際にお手本を見せてくださった人でもありました。また先の戸井田先生同様良くコントロールされた声で話される人でした。

 英語を学ぶということは、たんに言語を学ぶことではなく、その言語を生み出した文化全体を学ぶことなのだというのが先生の教えでした。発音の他にイントネーションというものがあり、この二つが通じる英語を話すことの不可欠の条件だということも教えていただきました。中学一年の頃ならまだそれほど『口が固まっていない』ので、子音の発音も何とかできるようになり、イントネーションも常に良いお手本の先生がいるので自然に身についたようです。後にアメリカに住むようになってもちゃんと通じる英語が話せ、また聞き取りが出来たのも大野先生のおかげです。マナーが良いということときちんと話すことが出来るということが欧米の社会で受け入れられる大切な条件であるということも教えられていたので、所謂人種偏見というものの被害者にもなりませんでした。1960から70年代当時になってもアメリカではアジア人は相当程度人種偏見の被害者になっていたのが実情です。

 大野先生ともまた授業だけの触れ合いではなく、校外での教えも受ける機会を得ました。私の学生時代母は非常に活発に活動していた為に子供の世話はともすればなおざりでした。寄宿舎に入っていた私の元に母から差し入れの小包など来たことがありませんでした。他の寮生の所には毎月、人によっては毎週のように荷物が届き、中には新しい服や、お菓子や手紙など親の心のこもった品がぎっしり詰まっていました。それを見て羨ましいとも淋しいとも思ったものです。

 あれは中学二年生の時だったと思いますが誕生日には何か届かないものかとひそかに期待していたのに何も届かずがっかりしていた時、一計を案じました。大野先生にこう言ったのです。

 「先生今日は何の日か知っている?」と。

 「はて、何の日かな」と首をかしげる先生に、

 「今日は先生の給料日で私の誕生日です」と言うと、

 「ああ、そうか。なるほど。そう言われちゃしょうがないな。じゃプレゼントあげよう」とチョコレートを買ってくださいました。実は先生は私の母が一風変わった人物で、普通の母親のように子供にこまごまとした仕送りなどしないのを知っていらしたのです。いつもお腹を空かしていた私には大変なごちそうでした。他にも幾つか親切にしていただいた思い出があり、大切に心にしまってありますが、何が先生の情愛の根底にあったのかと言えば、キリスト教の愛の精神だったのです。単に勉強を教える教師ではなく、愛情を持って生徒に接することを実践していらしたのです。これは『言うは易し行なうは難し』のことで、後年になってアメリカから帰国した後のお付き合いの中で、他の学生に接しておられた先生を見てもやはりずっと生徒思いでいらっしゃいました。一人一人の学生と実にていねいに接するのです。これを生涯続けられていたのです。

 戸井田先生も大野先生も授業に関しては非常に厳しい(これにシンニュウをかけたい位です)方でしたから、授業外での優しさがよりいっそう際立ったのだとも思います。日本語と英語という全く異なる文化背景を持った言語のそれぞれの美しさを教えてくださった二人の偉大な師に感謝すると共にそのご冥福を祈りつつ筆をおきます。

2004/01/16