愚かということ

 ソクラテスは、賢者とは己の愚かさを知る者であるというような意味の言葉を遺しています。ソクラテスに限らず多くの賢者がそのような意味の言葉を遺しています。私の魂の師である小田野先生も生前二言目には「私は愚者の最たるものなのよ」とおっしゃっていました。賢者の必要条件は自分の限界を明らかに見極めるだけの自己客観能力を持っているということだと思います。

 人生を長く生き、体験(おおむね失敗の体験)を積み、学ぶほどに自分がいかに何も知らない愚者であるかが解ってきます。思い返せば冷や汗がタラリか赤面するような失敗の累々たる積み重ねの人生でした。それでもやっと自分が愚かであることに気づき、ちょっぴりと心の平安を得ることができました。もう背伸びすることも競争することも、従って他者を羨むこともなくなったわけですから平安なのです。心が平安になるとまず可能になることは周囲に目が行き届くようになるということです。今までは自分の欲求不満に振り回されていて目に入らなかったものがいろいろと見えてくるようになります。この時にじっくりと観察する習練をしていくと洞察力が深まっていきます。観察力は洞察力という理解力の礎です。ただ眺めるように見るのでなくつぶさに観るのです。この観るという行為の裏には観察している対象を様々に分類、評価、判断、類推、整理そして体系付けするという思考が働いています。

 つまり、自分にしか注意していなかった自己本位の視点が一段上の意識段階である周囲に注意を向けられるような段階に発達すると、より細やかに思考が働き出すという現象が起きるということです。思考するということは頭の中で声には出さずに言葉を使っているということです。言葉を使わないで考えることは出来ません。嘘だと思うなら実験してみてください。より細やかに思考するためには、より細やかな現象を表現する語彙が必要になります。言いたいことがあるのにどう言っていいか解らないという経験をしたことはありませんか? 端的に自己を表現するのに必要な語彙を持っていないのと言いたいことを順序よく整理する力がないからです。同様に、手紙を書きたいのだがどう書いていいのか解らないという経験はありますか? これも書くべき趣旨を整理しかつ端的に表現する力が培われていないからです。自分の気持ちを上手く表現できない、文章が書けないという限界を知ると、その状態を改善しようという意欲が湧きます。まず、自己の限界の認識があり、対処しようという行動意欲が発動するのです。この意欲がなければ、誰が周囲でやっきになって教え込もうとしても無駄な努力となります。

 自己を発展向上させるために行動を起こすことの最初の契機は自分の愚かさを認識するということなのです。あたりまえと思いますか? そう思った人にお聞きしますが、自己表現が端的に出来ますか? 出来ないのなら、まだ本当に「あたりまえ」だとは理解していないことになります。

2002/02/04 菊池静流