安心かなめのこと

 子供のころ悪夢をみて、目覚めて泣いていると母がとんできてくれたものです。「また夢を見たの?」と言いながらしっかりと抱きしめてくれて何か楽しい話しをしてくれました。何も言わずにただ背中をなでていてくれたこともあります。恐怖は嘘のようにたちまち消えていってあとには平安がありました。
 恐怖心というのは面白いもので、ある間はどうしようもなく心が混乱して対応方法も思いつかないのに、何かのきっかけでそれが消えると原因はまるでバカバカしいほどつまらないことが多いのです。悪夢、高いところ、狭いところ、蛇、群集などの恐怖の原因はそれ自体他者にとって怖いものではありません。怖がっているのは本人の心だけです。その心が転換するともう何ともなくなるのです。この場合の転換は心を占領していた恐怖の対象が母という安心の対象に移ってしまったことです。要するに楽しければ怖くないのです。

 第二次大戦中に空爆を受けた東京に住んでいた人の話です。疎開しなかったその人は近隣の空き家に火がつくと、燃え広がらないうちに急いで消火して回っていました。両手に水の入ったバケツを持って一心不乱に此処かしこと消火をするのに忙しくて、空を見上げている閑がなく、焼夷弾のことなど念頭になかったとおっしゃっていました。多くの人が亡くなられましたが、その人は今もご健在です。機銃掃射の中で被弾する人もあれば被弾しない人もあるのです。日航機が富士山麓に墜落した際に生き残った人もいました。何時死ぬかは自分が決めているのではないという証拠です。そういうめぐり合わせという言い方があります。めぐり合わせを担当しているのは運命の神であって人間ではないのです。人間の担当分野は自分のできることを一生懸命行うことです。何があろうと怖くて凍り付いてしまうのも、平穏でいられるのも自分の心のもち方次第ですから、責任は爆弾や悪夢や蛇の方にはなくて、自分にあるのです。

 恐怖の原因はせんじつめれば「死」への恐怖です。死にたくないのは死んだらどうなるかがはっきり判っていないからなのです。飢えの苦しみも実は死への恐れから発しています。ただし克服するのは「言うは易し、行うは難し」です。断食の実行であれ、瞑想であれ、一心不乱の奉仕であれ、方法は一旦自分の恐怖は自分で克服しようと決めたら道は開けてくると思います。そして心が平穏で泰然自若としていられたら、怖がって泣いている人の心の支えとなることも出来ます。世界の平和は各人の心の平安が礎となって築かれるのだと思います。


2001/10/12 静流