〜3月のエッセイ 1 〜 〜3月のエッセイ 2 〜

八光(やっこ)


 昔から聖者とか覚者とか偉い人が真理を探究するためにいろいろな修行をしたというお話が遺っています。
大体は断食といって何週間も何も食べず(ひもじい)、道もないような険しい山へ登っていって(きつい)途中熊やら狼やら山賊やらもいて(恐い)、独りぼっちで(淋しい)、滝を浴びたり(寒い)それはもう辛そうな痛そうなひもじそうな修行をして、ある時ふっと「解ったあ!」となるのだそうです。

 何が「解ったあ!」にせよそれを黙って自分だけのものにしていたのなら、私達はその人が偉い人だったとは知らずじまいになっていますから、沢山の人に解ったことを伝えたに違いないと思います。大部分の人は話を始めたのです(まれに書くだけだった人もいたかも知れませんが)。
そして、話がとても説得力があったか、何か有益だったので、ついていく人たち(弟子)もできたり、その人たちが聞いたことを書き遺したり(教典)するのでずっと後になってからも私達にも読めるのです。

 さて、解ったことを話す時には「ことば」を使います。
それを書き記すのに使うのもことばです。それなら「解った」という内容はことばとして綴られているわけです。そのことばが聖者や覚者から放たれて他の人たちに吸収されていくわけです。

 四方八方ということばがあります。全方向という意味に使われています。全方向なら球体の360゜全部(上下も含めて)なので八方では足りませんが八で代表しています。覚者が話す時その人を中心に八方に光が放散している絵がいろいろと遺されています。大体は頭の後ろから発光しています。後光とか言います。足だけとか手だけから発光している絵は見たことがありません。頭かあるいは全身から発光してます。頭部には言語中枢と話をする口がありますね。その覚者を中心に八方に光が放たれているのですが、絵を描いた人にはそのように見えたからそういう印象を受けたので描いたのだと思います。

 さあこのお話もいよいよ佳境に入ります。まだついてきてますか?ありがとう。

 八方に光が発光(はっこう:八光)している八光という熟語は「やっこ」とも読めます。やっこというと奴という字がまず思い浮かびます。冷や奴じゃないですよ。奴は「やっこ」の他に「ぬ」とも読みます。人間という意味です。人間は実はエネルギーで出来ています。これは私が言っているのではなくて、物理ですエネルギーは光でもあります。人間を光として探知する機械も最近はあります。そのエネルギーである光は弱いのと強いのといろいろ種類があるのです。強ければわかりやすいので絵に描かれるようになったりします。大変な難関もものともせず、いろいろと探究した結果気づいたことを話す覚者は強い光を八方に放っていたに違いありません。真理を正しく理解し(正見−しょうけんといいいます)それを嘘偽りなく話す(正語−しょうご)、そのことばを真言(しんごん)と言います。真言を話した覚者からは後光が射して見えたのでしょう。

 人間は奴/八光ですから(飛躍してますが、エネルギーは光なので)偉い人でなくたって、ものすごい修行をしてなくたってやはり光を放っています。その光が清らかで強くあるためには真言(嘘でない本当のこと)だけを話していればいいのです。そうすると強い光があなたから八方に放たれ、それは美しい蓮の花のように見えるというわけです。真言を話(はな)すあなたから花(はな)のように清らかな光が放(はな)たれるというお話でした。


2001.3.2 静流